2022年10月12日水曜日

祈祷会用:ペトロの手紙二 1:1~11

 ペトロの手紙二 1:1‐11

 今日からペトロの手紙二に入ります。これまで読んできましたペトロの第一の手紙は、主に迫害の中にあるキリスト者を励ますために書かれたと申しました。第二の手紙はそれとは異なる必要から書かれています。それは2章に出て来る「偽教師」の問題です。教会に異端の教えが入り込んできたのです。そして、その教えによって教会に混乱が生じていたのです。

 教会に危機をもたらすのは外からの迫害だけではありません。往々にして内側からの崩壊の方が危険なのです。キリスト者の信仰生活は必ずしも外からの圧力によって妨げられるのではありません。そうではなくて、間違った教えによって、そこから入り込む罪によって妨げられるのです。私たちは信仰生活において、困難や苦難との戦いだけを考えていてはなりません。そうではなく、間違った教えが入って来ること、また罪が入って来ることと戦わなくてはならないのです。

 それゆえに、この手紙の最後でペトロはこう言っています。「わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい」(3:18)と。そうです、私たちは成長しなくてはならないのです。その成長は「知識においても成長すること」を含みます。知るべきことを知り、認識すべきことをしっかりと認識して生活することです。

 そこで重要なことは、まず既に与えられているものをしっかりと認識することです。ペトロは次のような挨拶から書き始めます。「イエス・キリストの僕であり、使徒であるシメオン・ペトロから、わたしたちの神と救い主イエス・キリストの義によって、わたしたちと同じ尊い信仰を受けた人たちへ。神とわたしたちの主イエスを知ることによって、恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように」(1‐2節)。

 一方において、イエス様と共に生活し、その力ある業と栄光とをその目で見ることを許され、その信仰を直接手渡された使徒たちがいます。ペトロはその一人でした。そして、もう一方には、この手紙を読んでいる教会の信徒たちがいます。偽教師たちの教えに翻弄されているまことに心許ないキリスト者たちであるとも言えます。しかし、ペトロは言うのです。「わたしたちと同じ尊い信仰を受けた人たちへ」。すなわち、「あなたがたの信仰は尊さにおいてわたしたちの信仰と同じだよ」と言っているのです。

 命をかけてキリストを宣べ伝え、最後まで信じ抜いて殉教していったペトロの信仰と、ここにいる私たちの信仰。ずいぶん違うと思うかもしれません。しかし、ペトロは言うのです、「同じだよ」と。信仰の尊さというものは、信じている人によって決まるのではない、ということです。

 もしかしたら、誰か他のキリスト者の姿を見て、「あんな人がキリスト者だというならば、キリスト教信仰なんて価値ないじゃない」と言う人がいるかも知れません。しかし、信仰の価値は信じる人によって決まるのではなくて、与えてくださる御方によって決まるのです。私たちの信仰は「わたしたちの神と救い主イエス・キリストの義によって」与えられたのです。「義によって」とは「救いの御業によって」と言い換えてもいいでしょう。イエス・キリストを十字架にまでおかけになるという神の御業です。私たちに与えられている信仰の価値は、私たちが何をしたかによって決まるほど安くはありません。それはキリストの血潮の価値なのです。要は尊いものを尊いものとして扱っているかどうか。それによって信仰生活が決まってくるのです。

 さらに私たちが与えられているものについて、ペトロは次のように語っています。「主イエスは、御自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました。それは、わたしたちを御自身の栄光と力ある業とで召し出してくださった方を認識させることによるのです」(3節)。

 わたしたちには「命と信心とにかかわるすべてのもの」が与えられていると語られています。このことを私たちは深く心に留めなくてはなりません。私たちは使徒たちが受けた信仰と同じ尊い信仰が与えられただけではありません。「命と信心とのかかわるすべて」言い換えるならば「信仰生活にかかわるすべて」は既に与えられているということです。「信心」とは「敬虔な生活」のことです。真に神と共に歩む生活のことです。そのように生活するために必要なすべては既に与えられているのです。言い換えるならば、与えられている尊い信仰を、まことに尊いものとして生きることができるように、そのためのすべては既にイエス様によって与えられているのです。

 イエス様はどのようにして、それを与えてくださったのでしょう。それは自ら実際にこの地上において生活してくださったことによってです。イエス様が、この地上において神の力を現しながら、神を示して生きてくださったのです。そのことによって、神を「認識させてくださった」のです。神をイエス・キリストの父なる神として知るようになり、愛なる神として知るようにさせてくださったのです。御子は受肉によって、私たちに神の認識をもたらしてくださったのです。

 その神の認識がまず使徒たちに与えられました。その使徒たちから、世々の教会へと伝えられました。そして教会を通して、聖霊のお働きを通して、私たちにも必要なすべてが伝えられているのです。つまりキリストは今も御力によって神を認識させ、信仰生活のために必要なすべてを与えてくださっているのです。そのように、私たちの信仰生活に必要なものは、私たち人間の内側から出て来るものではなくて、聖書を通し、教会を通し、聖霊のお働きを通してキリストによって与えられているのです。

 そして、私たちは現在の信仰生活のために必要なものを与えられているだけではなく、私たちが待ち望むべき「尊くすばらしい約束」もまた与えられているのです。それはこの後3章に述べられることになりますが、キリストの再臨の約束であり、また11節の言葉で言えば、「わたしたちの主、救い主イエス・キリストの永遠の御国に入れる」という約束です。

 神の国に入れるということは当然の権利なのではなく、ただ一重にキリストの十字架を通して特別に恵みの賜物として与えられた「約束」です。ですから当然ですが、罪を赦されてその約束が与えられたのは、「後はどう生きてもよいのだよ」ということではないのです。そうではなく、わたしたちが「情欲に染まったこの世の退廃を免れ、神の本性にあずからせていただくようになるため」(4節)なのです。すなわち、この世と一緒に腐ってしまわないためなのです。罪の泥沼に呑み込まれて一緒に腐ってしまわないためです。そうではなくて、神の性質を共有する者となるのだ、というのです。神の像として造られ、神の似姿に造られた本来の人間になるためなのです。

 そのように、既に与えられている尊いものがあるのです。その尊いものを尊いものとして受け止めて生きることが重要なのです。それゆえに、私たちは信仰生活における成長、この世の退廃を免れて神の本性にあずかるところへと向かっていく具体的な歩みを求めていかなくてはならないのです。

 私たちは確かに罪人のまま、「そのまま」で神に赦され、受け入れられ、救われました。しかし、だからこそ本来清められるはずのない罪が清められて、今こうしていることの重みを忘れてはならないのです。十字架の血の重さを持つ特別な恵みによって、神の国の約束を与えられていることを忘れてはならないのです。そうあってこそ、「ありのまま」で受け入れられた人が、その「ありのまま」から踏み出して生きるようになるのです。もしそうでないとするならば、キリストの十字架のゆえに罪が赦されたことを忘れているか、近眼になって目の前のことしか見えずに、神の国のことが考えられなくなっているということです。9節に書かれているのは、そういうことです。

 私たちは5節以下に書かれているような、成長を求める具体的な信仰生活の訓練を実践していかなくてはなりません。そうあるならば「決して罪に陥りません」とペトロは言います。「罪に陥る」と訳されている言葉の原意は「つまずいてよろめく」ことです。つまり個々の罪に陥ることというよりも、信仰生活そのものが壊れてしまうことです。「これらのことを実践すれば、決して罪に陥りません。こうして、わたしたちの主、救い主イエス・キリストの永遠の御国に確かに入ることができるようになります」と書かれていますように、私たちは、つまずきながら、よろめきながらではなく、永遠の御国を目指しつつ、成長を求める信仰生活の確かな足取りをもって生涯を全うしたいものです。

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