2022年12月14日水曜日

祈祷会用:ヨハネの手紙一 2:7~11

ヨハネの手紙一 2:7‐11

 前回お読みしたところにこう書かれていました。「わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。『神を知っている』と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません」(2:3‐4)。

 ここに語られている「神を知っている」と言っている人というのは、先週触れました、後にグノーシスと呼ばれる異端の人々のことです。彼らは神を知り、肉体の牢獄から解放されるための特別な知識(グノーシス)を得ていると主張していたのです。彼らは自らを「霊の人」と呼びました。しかし、「霊の人」として、肉体から解放されているという思想のゆえに、肉体が行うことについて責任を持たないことが正当化されていたのです。不道徳に身を任せ、目に見える兄弟をも愛することなく、この世における倫理的な責任をも放棄してしまっている。そのような人々について、実際に神の掟を守っていないなら、どうして「神を知っている」と言えようか、とヨハネは言っているのです。まさにそのような生活が異端の内に真理がないことを暴露しているのだ、と。

 異端の人々についてこのように語っているのは、教会の中にいまだにその教えに惹かれている人たちが少なからずいたからです。それゆえに、ヨハネは彼らに「神の掟」が何であるかを改めて思い起こさせます。ここで語られているのは、キリストが最後の晩餐の時に語られた、「新しい掟」のことです。すなわち「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)と主が言われたことです。

 教会の人たちは、その言葉を既に良く知っているはずです。ですから、ヨハネは「これは初めて語られることではありません」という意味で、次のように語ります。「愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です」(7節)。

 しかし、ヨハネはこの既に教会の人たちが聞いたことのある言葉を、改めて新しく語り直さなくてはならないと感じています。「しかし、わたしは新しい掟として書いています」(8節)と言うのです。もちろん「新しい掟」という表現を最初に使ったのはイエス様御自身です。しかし、ヨハネは、あの時なぜイエス様があえて「新しい掟」と言われたのか、そのことを思い起こさせようとしているのです。それが「新しい掟」であるのは、イエス様にとっても真実であり、それはまた教会の人たちにとっても真実であるはずだからです。

 その新しさとは何だったのでしょう。ヨハネは言います。「闇が去って、既にまことの光が輝いているからです」(8節)。「闇はもう去ってしまった」と言える、決定的な出来事が既に起こったのです。それは言うまでもなく、イエス・キリストの十字架と復活を指しています。

 後に、その決定的な出来事についてヨハネはこう書いています。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(4:9‐10)。

 「闇が去って、既にまことの光が輝いている」とは何を意味するのか、もう明らかでしょう。1章5節には「神は光である」と書かれていました。その光とは、さらに言うならば神の愛の光なのです。イエス・キリストを通して現してくださった、神の愛の光なのです。その光は既に現され、ちょうど太陽が昇った後のように私たちを照らしているのです。

 そのように神がまず私たちを愛してくださったという決定的な出来事の光の中で、「あなたがたは互いに愛し合いなさい」と言われているのです。ただ「愛せよ」と命じられているのではないのです。そこにこそ新しさがあるのです。イエス様が「新しい掟」と言われ、ヨハネが改めて「新しい掟として書いています」というのは、そういうことです。

 そのように、神の愛が完全に現され、「闇が去って、既にまことの光が輝いている」という中にあるにもかかわらず、そこでなお神の光を退け、「互いに愛し合いなさい」という新しい掟を退けるということは、何を意味するのでしょう。それはちょうど、太陽が既に昇っているにもかかわらず、部屋の窓を閉め、カーテンを引いて、部屋を真っ暗闇にしているようなものではありませんか。

 あるいはもっと適切な例を挙げるなら、既に明るい中を歩いているはずなのに、あえて自ら目をつぶって、その本人としては真っ暗闇の中を歩いているようなものです。ですからヨハネはこう言うのです。「『光の中にいる』と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます」(9節)。

 誰でもそうだと思うのですが、神秘的な体験や神のリアリティに触れるような体験をした人は自分が「光の中にいる」ような思いになるのです。「他の人に見えないことが、わたしには見えている」と思うのです。現に異端の人たちは「光の中にいる」と主張していたのです。しかし、それが目に見える兄弟を愛することにつながらないで、相変わらず憎んだり争ったりしているならば、実際には、既にまことの光が輝いているにもかかわらず自分を暗闇の中に閉じこめてしまっているようなものなのだ、と聖書は語っているのです。

 さて、そのように暗闇の中に自分を閉じこめてしまうならば、何が起こるでしょうか。実際に、目をつぶったまま歩いたり走ったりしたら何が起こるかを考えてみてください。必ず何かにつまずくことになるでしょう。ですからヨハネはこう言うのです。「兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。しかし、兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません。闇がこの人の目を見えなくしたからです」(10‐11節)。

 「つまずく」というのは、もちろん信仰がつまずくことです。信仰がつまずいて神からも離れてしまうことです。光の中にいるならばつまずかないのです。しかし、愛することを止めて、憎しみが支配するならば、つまずくようになります。実際にそうではありませんか。信仰がつまずくときは、たいてい他の人との関係においてつまずくのです。そのような時、「誰かのせいでわたしはつまずいた」と思うのです。しかし、聖書によればそうではなくて、愛することを止めて、暗闇の中に身を置いたからつまずくのです。

 いやつまずくだけだったら、まだ良いのです。そこにはもっと恐ろしいことが書かれています。「兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません」(11節)。目をつぶったまま、歩き続けていたり、走り続けている姿を考えて見てください。すぐにつまずいて倒れたなら、まだ良いのでしょう。そうではなくて、そのまま走って行ってしまうなら、それこそ恐ろしいことになります。その先には崖があるかもしれません。そのように兄弟を憎むという暗闇の中にあって、どこへ行くかを知らないまま進んでいくならば、何が先に待っているか分からないのです。それは滅びへと向かうことになってしまうかもしれません。憎しみを抱いたまま先へと進んでいくということは、そういうことなのです。

 もとより理由なく誰かを憎むということはあり得ません。そこには必ず何らかの理由があるのでしょう。理由があって憎んでいる場合、自分は正しい側の人間になっているはずです。しかし、その正しさを主張したまま先へ先へと進んでいくことは、極めて危険なことなのです。暗闇の中にある人は、自分がどこへ行くかを知らないからです。闇の中にいることを知ったなら、立ち止まらなくてはなりません。暗闇の中を歩いたり走ったりしてはなりません。まず光の中に立ち戻ることが先決なのです。
(祈り)

以前の記事