2022年12月21日水曜日

祈祷会用:ヨハネの手紙一 2:12~17

ヨハネの手紙一 2:12‐17

 先週お読みした箇所には、「兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません」(10節)と書かれていました。そして、その真逆についても、「しかし、兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません。闇がこの人の目を見えなくしたからです」(10‐11節)と書かれていました。

 既にキリストによって神の愛が完全に現され、真昼の太陽のように輝き渡っているにもかかわらず、自ら目をつぶってしまうならば、暗闇の中を歩くことになります。「兄弟を憎む」とはそういうことであって、そのように闇の中を歩くならば、必ずつまずくことになるのです。いや、つまずくだけでなく、自分がどこへ行くかを知らずに進むことになる。それはつまずくことよりも怖いことです。暗闇の中を歩いてはならないのです。

 しかし、ヨハネがこのように語るのは、教会の人たちを断罪するためではないことは言うまでもありません。彼は、既に恵みの中にある神の家族として語りかけているのです。既に神の恵みにあずかっているからこそ、このことを聞かなくてはならないのです。

 それゆえに、ヨハネは「子たちよ」「父たちよ」「若者たちよ」と語りかけ、彼らが既にどのようなものとされているかを語り直します。これらの呼びかけは、教会の中のそれぞれの世代として考えることもできるでしょう。しかし、ここに書かれていることは、全てのキリスト者について共通に語られ得ることでもあります。その意味では全てのキリスト者が「子たち」、「父たち」、「若者たち」であるとも言えるのです。

 まず、私たちは「子たち」であり「子供たち」です。12節と14節で訳語が違うのは元の言葉が違うからです。それらの言葉に大きな差はありません。しかし、「子たち」であり「子供たち」であるというのは、二つの面を持っています。一つは「親」に対する「子」ということです。もう一つは「大人」に対して「子供」であるということです。

 私たちは、まず親に対して子であるという面を持っています。私たちは父なる神の子としていただいたのです。共に神を「アッバ、父よ」と呼ぶ者としていただいて、父なる神との交わりに入れられたのです。また、もう一方においては、まだ成長しなくてはならない者という意味でも子どもです。子どもが成長するためには教育や訓練が必要なように、信仰の成熟のための教育と訓練を必要としているのです。

 そのような「子たち」であり「子供たち」である者として自覚しなくてはならないことがあります。それはまず「イエスの名によって、あなたがたの罪が赦されている」(12節)ということです。罪は複数です。諸々の罪ということです。その罪の赦しはただ一重に「イエスの名」によるものです。なぜなら、イエス・キリストこそ唯一、罪の贖いを成し遂げることのできる御方であり、また事実、私たちのために罪の贖いを成し遂げてくださった御方だからです。

 そのイエス・キリストによる罪の赦しがあったからこそ、父の子として御父を知る者となることができたのです。「あなたがたが御父を知っているからである」と語られているとおりです。そのようにキリストによって罪を赦されて、その上で「子供たち」とされているのだ、という自覚が大事なのです。

 次に「父たち」と呼びかけられています。「父たち」で直接的に呼びかけられているのは、群れに気を配り成長を助ける長老たちを指していると言えます。しかし、ある意味で私たちは皆、この「父」としての側面を持っているのです。さらなる教育と訓練を必要とし、さらに成熟していかなくてはならない「子ども」であるだけでなく、他の子どもたちのケアをし、成熟を助ける「父」としての側面を持っているのです。というのも、教会には新しい信仰の子どもたちが絶えず生まれ続けるからです。何年信仰生活をしていても自分の信仰のことだけで精一杯、というようなことで良いはずがありません。

 「父たち」に対しては繰り返し、「あなたがたが、初めから存在なさる方を知っているからである」と言われています。「初めから存在なさる方」というのは、この手紙の冒頭に書かれているように、御子なるイエス・キリストのことです。その御方を「知っている」。「知る」というのは、御父についても言われていますが、これは単なる知的認識ではありません。交わりです。私たちが、他の子どもたちに対して「父」としての側面において生きるために、どうしても重要なことはキリストを知っている、キリストとの交わりにあるということなのです。ともすると間違えやすいのですが、私たちの能力や私たちの人生経験によって、他の子どもたちのケアをし成熟を助けるのではないのです。

 第三「若者たち」と呼びかけられています。これはキリスト者における「戦う者」「戦士」としての側面です。私たちはただ単に、この人生を平安に生きることができるようにと信仰へ導かれたのではありません。そうではなくて、戦うために召されたのです。この世を支配している悪魔の力と、人間を捕らえて離さない罪の力と戦うために召されたのです。人間を闇の力から救い出し、御子の支配下に取り戻すための戦いです。かつて誰かが戦士として戦ってくださったからこそ、今の私たちがあるのです。今度は私たちが主の戦列に加わる番です。その点においては、実際に年齢的に若者であるか否かは関係ありません。

 そこで重要なのは若者たちに繰り返し語られていることです。「あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである」。私たちの目にはまだ戦いが進行中に見えます。いやそれどころか形勢不利にさえ見えることもあるのです。しかし、ヨハネは言います。「既に勝っている!」と。それは既にイエス様が十字架と復活において、決定的な勝利を取ってしまわれたからです。それゆえに私たちの戦いは、キリストによって私たちが既に悪魔に打ち勝っているその勝利の現実が目に見える形で現れるための戦いのです。

 それは私たち自身の強さによるのではなく、ただ福音の力によってのみ実現するのであって、それゆえに二回目に「若者たち」に語られる時には、「若者たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが強く、神の言葉があなたがたの内にいつもあり、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである」と書かれているのです。あくまでも福音が内において生きていること、神の言葉が内に留まっていることが重要なのです。

 さらに15節では「世も世にあるものも、愛してはいけません」と勧められています。既に述べられたように、私たちは「子ども」であり「父」である「若者」です。そのような者としてこの世に生きるように召されているのです。御子が肉体をとってこの世を生きられたように、私たちもこの世に生きるのです。グノーシスの異端の人々のように、肉体から解放された霊の人にとってもはや肉体が何を為すかは問題ではないのだ、などとは言いません。あくまでもこの世にあって、この体をもって責任的に関わって生きるのです。

 それゆえにまた、この世においてどう生きるかが重要になってくるのです。この世とどのように関わるかということです。世にあるものが神から私たちを引き離すことを許してはならないのです。

 実際、ヨハネが「世」と言う時に、それは多くの場合悪魔が支配しているこの世を意味するのであって、ここで語られているのもそういうことです。悪魔が支配しているこの世は、確かに人間を神から引き離すものとして働くのです。神から出たのではない、すなわち悪魔から出た「肉の欲、目の欲、生活のおごり」が神から人間を引き離すものとして働くのです。それはキリスト者にとっても、そのように働くのです。ですから、「世も世にあるものも、愛してはなりません」と語られているのです。

 しかし、それは世と一切かかわりを持たない「世捨て人」になることを意味しません。繰り返しますが、キリスト者はこの世に責任的に関わって生きるのです。そこで思い起こすべきは最後の晩餐におけるキリストの祈りでしょう。主はこう祈られました。「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました」(ヨハネ17:15‐18)。世を愛さないとは、世を捨てることではなく、世に遣わされた者として常に神の御心を尋ね求め、「神の御心を行う人」(17節)となっていくことなのです。

(祈り

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