ヨハネの手紙一 2:1‐6
先週からヨハネの手紙の学びに入りました。ヨハネは自分たちが見、また聞いたこと、すなわちイエス・キリストを伝えようとしています(1:3)。しかし、この手紙が宛てられている人々に関して言うならば、実はもう既にキリストを知っている人、キリストを信じている人なのです。5章13節を御覧ください。「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。」
そのように、この手紙は、既に信者である者に、改めて福音を語り直している、そのような手紙であることが分かります。特に、冒頭から明らかなように、ヨハネはイエス・キリストが「目で見たり、手で触れた」りすることができたこと、すなわちキリストの受肉を強調しています。また、今日お読みしたところに、キリストが受肉したのは「全世界の罪を償ういけにえ」となるためであったことが書かれていまして、それは4章でも繰り返されています。
そのような福音の基本的な事柄が語り直されているのは、教会の信仰が危機に瀕していたからです。既にペトロの手紙の学びにおいても見てきましたように、教会は外からの迫害だけでなく、内側から崩壊させる力を持つ異端の教えによる危機に直面していたのです。キリストの受肉や罪の贖いが語り直されているのは、現実には受肉や贖罪を否定する人たちがいたからなのです。
後にその異端はグノーシスと呼ばれるようになり長い間教会を苦しめることになります。その教えの特徴を簡単に申し上げますと、その根底にあるのは霊肉二元論です。霊的なもの精神的なものは善であり実在し、物質的なものは悪であり本当は実在などしないとする考えです。ですからキリストが物質的な肉体をとられたとは信じません。肉体を持って死んだのも「そのように見えただけ」とするのです。ですから罪の贖いをも信じない。キリストは十字架にかかるために来られた御方なのではなくて、目に見えない霊の領域から目に見える肉の領域に降って来た神であり、人間の魂を牢獄である肉体から解放して霊の領域に帰らせるために来られ、自分自身もまた霊の領域に帰っていく神なのです。
彼らはこの解放者であり啓示者であるキリストによって救いの知識(グノーシス)を得て、肉体の牢獄から解放され、神との神秘的な合一を得た霊的な人になっていると考えました。そのような人にとっては物質的な肉体が何を行うかということは本質的に重要なことではなかったのです。ですから、いくらでも不道徳に甘んじることができたし、当然、この世における倫理的な責任を果たす必要もなかったのです。
そのようなグノーシスの異端というものは、形を様々に変えながら、今日に至るまである意味では続いていると言えます。キリストの受肉も十字架をも必要としない信仰。ただひたすら神秘的な体験とそれによる特別な知識を求める信仰。そして、それを得たら何か特別な人間にでもなったかのように考える。その一方において、目に見える世界を意味無しとするゆえに、自らの罪の問題とは向き合わず、悔い改めを重要なこととも考えない。この世における責任ということも考えない。現実の体をもって他の人々と共に生きるということも重要に考えない。そのような信仰のあり方が、いくらでも教会に入ってくることはあり得るのです。だからこそ、改めて福音が語り直されなくてはならなかったのです。
そこでヨハネは言います。「わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです」と。この手紙において、「罪を犯す」という言葉は、狭い意味においては、既に述べてきた異端に転じないということを指しています。しかし、それはまた広い意味においても「罪を犯さないようになるため」ということでもあります。先にも触れましたように、グノーシスの異端は罪の問題と向き合う感覚を麻痺させてしまうからです。それは、神と交わりを持っていると言いながら、罪に目を向けないで済む暗闇の中を歩いているようなものなのです。ですからヨハネは光の中を歩くようにと語るのです。光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められることを語るのです。それは「罪を犯さないようになるため」なのです。
そこでさらにヨハネはさらに次のように語ります。「たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです」(1‐2節)。
「たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者…がおられます」は、それだけ取り出して読めば、罪の容認に見えなくもありません。確かにイエス・キリストが罪を償ういけにえであるという教え、ただイエス・キリストを信じる信仰によって義とされるという教えは、罪を許容する教えであるかのように誤解される危険はありますし、また実際に誤解されてきたことも事実です。しかし、それでもなおこれは本来、私たちが「罪を犯さないようになるため」に与えられているものなのです。
御父のもとには弁護者がおられることを知らないゆえに、また、全世界の罪を償ういけにえが既に屠られたことを知らないがゆえに、人は光なる神を遠ざけて暗闇の中に逃げ込むのです。現実と向き合わなくなるのです。罪が現実にあるのに、その罪の問題と向き合わなくなるのです。
そのように光の中を歩み、感謝をもって神の御心を行うようになることこそ、神を知るということなのです。ただ神秘的な神との合一を求め、そのような体験によって神の知識を得たと思っても、それは本当の意味で神を知っていることにはならない。それゆえにヨハネは言います。「わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。 『神を知っている』と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません」(3‐4節)。
「掟」という言葉は、一般的に肯定的な印象を与えない言葉でしょう。しかし、これを読んでいた教会は、それが何を意味するか分かっていたのです。その掟とは――「愛すること」です。互いに愛し合って生きることなのです。次の章にはこう書かれています。「その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです」(3:23)。さらにこうも言われています。「神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です」(4:21)。
この掟はイエス・キリストに由来します。最後の晩餐の席において、イエス様は弟子たちに言われました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)。そのように、神の掟を守ることの中心にあるのは互いに愛し合いなさいというキリストの掟です。
神を知るということと愛するということは不可分の関係にあります。それは御子として御父との交わりの中に生きられたイエス様御自身が示してくださったことです。イエス様は父なる神の内にあり、父との交わりの中に留まるということがどういうことかを見せてくださいました。それゆえに、ヨハネはこのように記しているのです。「神の内にいつもいる(留まる)と言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まねばなりません」(6節)。イエス様は自ら肉となられてこの地上の世界を歩まれ、具体的に目に見える世界と目に見える現実の人間を愛して生きられたのです。
(祈り)