列王記上21:1-7
本日は列王記上21章のはじめの部分をお読みしました。この章は一つのまとまった物語ですが、前半と後半に分かれます。1節から16節までの前半には、アハブ王がナボトを殺してぶどう畑を奪った経緯が記されています。もちろん、厳密に言えば実際に計略をもってナボトを殺したのは妻のイゼベルです。しかし、聖書は単にイゼベルの悪事だけに目を向けることはしません。前半の最後は次のように締めくくられているのです。「アハブはナボトが死んだと聞くと、直ちにイズレエルの人ナボトのぶどう畑を自分のものにしようと下って行った」(16節)。
あくまでも聖書はこの出来事を、アハブとナボトのやり取りから始まり、実際にアハブがナボトのぶどう畑を自分のものにした出来事として書いているのです。それはどうしてか。これは単に権力を乱用した不正の問題ではないからです。社会正義の問題ではないのです。問題はもっと根深いところにあります。これは信仰の問題であり、神に対する背きの問題であるのです。そのことを明らかにするために、注目すべき4つの点に目を向けていきましょう。
嗣業の土地
その第一は、ナボトが王の求めを断った理由です。アハブ王はこう言ってナボトに話を持ちかけました。「お前のぶどう畑を譲ってくれ。わたしの宮殿のすぐ隣にあるので、それをわたしの菜園にしたい。その代わり、お前にはもっと良いぶどう畑を与えよう。もし望むなら、それに相当する代金を銀で支払ってもよい」(2節)それに対してナボトはこう言って王の申し出を断ったのです。「先祖から伝わる嗣業の土地を譲ることなど、主にかけてわたしにはできません」(3節)。その理由は4節でも繰り返されています。この言葉がこの物語において重要な意味を持っているからです。
当時、土地の売買が行われていなかったわけではありません。また、王の提示した条件は、決してそれ自体不当なものではありませんでした。にも関わらずナボトが拒否したのは、「主にかけて」という言葉が示すように、信仰的な理由からでした。
ナボトの土地は、「先祖から伝わる嗣業の土地」と表現されています。「嗣業」とは、神から受け継いだ賜物という意味です。イスラエルにおいては土地が家族によって相続されるということは、決定的に重要なことでした。その根本には、土地の真の所有者が神であるという理解があります。その神の恵みによって人は土地の上で生きることを許されているのです。「嗣業の土地」はその恵みの事実を指し示しているのです。それゆえに、土地は人間が自分勝手に処理してはならないのです。王の求めに対するナボトの拒否は、土地を所有する主の権威の方が王の権威よりも上にあることの信仰的な表明に他ならなかったのです。
分かってはいるけれど
そして、第二に注目すべきは、アハブ王がナボトの主張の正当性を、ある意味では認めていたという事実です。
王はもともと自分の権力によって無理矢理に土地を奪うつもりなどなかったのです。4節をご覧ください。「機嫌を損ね、腹を立てて宮殿に帰って行った」と書かれています。王は腹を立てつつも引き下がったのです。そして、何をするでもなくふて寝していたのです。ナボトに危害を加えるつもりもなかったのです。主の言葉の権威が自分よりも上にあることをアハブは知ってはいたのです。ナボトの主張の背景にある律法の言葉が、王である自分の意志よりも上にあることを、彼は分かっているのです。
しかし、分かっていることと従うこととは別の話です。アハブはふて寝の理由をイゼベルに問われた時、ナボトが拒否した本当の理由を知りながらも、そのままイゼベルに告げることはしませんでした。「嗣業の土地」とナボトははっきり言っていたはずです。しかし、その部分は抜かして、単に「畑は譲れないと言うのだ」とイゼベルに訴えるのです。彼はナボトが拒否した本当の理由を知りながらも、それを認めたくはないのです。すなわち、何が主に従うことかは分かっているけれど、その意志に従いたくはないのです。
バアルを信じる者とは
さて、第三に注目すべきは、ナボトと対照的なイゼベルの言葉です。ここにおいて物語は問題の核心に近づいていきます。彼女は言うのです。「今イスラエルを支配しているのはあなたです」(7節)。彼女はバアルの信奉者であり、主を信じる者ではありません。このイゼベルの言葉は、ナボトとイゼベル、すなわち主を信じる者とバアルを信じる者の決定的な違いが見事に表現されています。
ナボトにとって、イスラエルを本当の意味で支配しているのは主なる神なのです。その主の下に王はいるのです。王もまた主の意志に従わねばならないのです。しかし、バアル信仰においてはそうではありません。バアルは豊作の神です。バアルは豊作と繁栄には関わっていますが、王国の統治には関わってはいないのです。バアルは王に命じません。王もバアルに聞き従う必要はありません。そうです、バアルは人間の願いは聞きますが人間に命じることはない神なのです。どうしてだか分かりますか。バアルとは人間の欲望の投影に他ならないからです。
イゼベルは王妃として、ある意味で王の権力を共有しています。(実際には、本当に権力を持っていたのはイゼベルでしょう。)彼女にもバアルは命じません。バアルは彼女の上にはいないのです。ですから彼女はこう言います。「わたしがイズレエルの人ナボトのぶどう畑を手に入れてあげましょう」。これは直訳すると「わたしが与えます」という言葉なのです。この言葉は、土地の真の所有者は主であるというナボトの理解とは対極にあることが分かります。
そして、注目すべき第4は、ナボトが偽証に基づく不当な裁判の結果打ち殺されたことです。
イゼベルは町の有力者たちに指示を出しました。指示を受けた人々がしたことは次のように書かれています。「彼らは断食を布告し、ナボトを民の最前列に座らせた。ならず者も二人来てナボトに向かって座った。ならず者たちは民の前でナボトに対して証言し、『ナボトは神と王とを呪った』と言った。人々は彼を町の外に引き出し、石で打ち殺した」(12-13節)。そのように、ナボトはイゼベルが仕組んだ不当な裁判によって有罪とされ、彼は町の外に引きずり出されて石で打ち殺されたのです。
モーセの十戒は偽証を禁じます。しかし、それにもかかわらず、ナボトは打ち殺されたのは、明らかにイゼベルが主の権威の下に身を置いていないからです。イゼベルにとって主の十戒も命令も意味がないのです。イゼベルは決して人に命じることのない神、バアルと共にあるからです。
悔い改めと従順
さて、このことはアハブの時代に限った問題ではないことが聖書を読むとよく分かります。神への信仰と人間の行為とは深く結びついているのです。どのような神を信じるのか。どのように神を信じるのか。それは人間の倫理的な行為と深く結びついているのです。
バアル信仰の問題は、一国における社会正義にまで広く関わる問題として聖書には描かれています。そして、それはキリストを信じる私たちと無関係ではありません。キリスト者が神の言葉に聞こうとはしなくなると、その信仰はバアル化していきます。ただ自分の必要の満たし、ただ自分の欲求の充足、ただ自分の抱えている問題の解決だけを神に求めているならば、それはもはや主なる神ではなくバアルなのです。そして、バアル化した信仰、バアル化した教会、バアル化した礼拝は、具体的な生活に必ず影響を及ぼすようになるのです。
さて、17節に入り、「そのとき、主の言葉がティシュベ人エリヤに臨んだ」という言葉をもって後半が始まります。ナボトが殺されて、ぶどう畑が手に入れば、この件はアハブとイゼベルにとって一件落着です。しかし、人間にとって終わりであっても、神にとっては終わりではありません。人間が蓋をして無かったことにしても、神は蓋をこじ開けて問題にするのです。
主はアハブに言われます。「あなたは人を殺したうえに、その人の所有物を自分のものにしようとするのか」(19節)。最初に申しましたように、厳密に言えばアハブは人を殺してはいません。殺したのは石を投げた人々です。偽証したならず者たちです。不当な裁判を良しとした長老と貴族です。それを命じたイゼベルです。アハブはそのどこにも加わってはおりません。
しかし、主はアハブに向かって「あなたは殺した」と言うのです。アハブは消極的な仕方にせよ、バアルと共にあるイゼベルの側にいたからです。そして、結局、ナボトのぶどう畑を手にしたからです。
主が蓋を開いて問題にする時に、人間の為しえる最善のことは、様々な理由をつけて再び蓋をしてしまうことではありません。アハブは「わたしは手を下していない。わたしには関係ない」と言うこともできたでしょう。また、預言者エリヤを殺してしまうことも、アハブにはしようと思えばできたはずです。しかし、そうやって蓋をしても何の解決にもならないのです。そして、アハブはそのことだけは分かっていたようです。
そこで人間の為しえる最善のことは悔い改めです。主の御前に罪を認めて謙り、悔い改めることです。「アハブはこれらの言葉を聞くと、衣を裂き、粗布を身にまとって断食した。彼は粗布の上に横たわり、打ちひしがれて歩いた」(27節)。そして、主は確かにアハブの謙りと悔い改めに目を留めていてくださったのでした。