2022年11月9日水曜日

祈祷会用:ペトロの手紙二 3:1~13

ペトロの手紙二 3:1‐13

 2章前半をお読みしました時に、「罪の赦し」は「正しく裁く権威」と分かち難く結びついていることをお話ししました。神が罪を赦すことができるのは、神が罪を裁くことのできる御方だからです。罪を正しく裁き、断罪し、滅ぼす権威をお持ちの方だからこそ、その権威をもって他の誰も取り消すことのできない罪の赦しの宣言をすることができるのです。しかし、この手紙において問題になっている「偽教師たち」は、かつてイスラエルに現れた偽預言者と同じように、神が正しく裁かれる御方であり、私たちもまたその正しい裁きのもとにあるという事実から目を背けさせる教えを説いていたのでした。そのことが今日の箇所を読みますとよく分かります。

 もともと、神の正しい裁きを信じる信仰は、キリストの再臨を信じる信仰として言い表されてきました。使徒信条において私たちもまた「(主は)かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」と告白しております。この信仰告白はもちろんキリストの語られた言葉に基づきます(例えば、マタイによる福音書24、25章を御覧ください)。

 ですから初代のキリスト者たちは、すぐにでもキリストがすぐにでも再び来られると信じて生活していました。自分が生きている間に、キリストの再臨はあるだろうと信じて疑わなかったのです。聖書の中にアラム語のままで「マラナ・タ」という当時の祈りの言葉が記されていますが(1コリント16:22)、それは「主よ、来てください」という意味です。それは彼らにとってリアルな期待だったのです。

 しかし、実際には、再び来られるはずのキリストは、なかなか来られませんでした。初代のキリスト者が次々と死んでいく中にあってもなお、キリストが来られることはありませんでした。いやそれどころか、二千年近くの時を経てもなお、キリストは再び来られてはいないのです。ですから、そこにあざける者も現れてくるのです。「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか」。

 「終わりの時には」そのような者たちが現れると書かれていましたが、現実には既に紀元一世紀、この手紙が書かれた頃に既にいたのです。この場合、「あざける者たち」とは、既に述べられてきた偽教師たちのことです。当時の教会は、既にそのような人々によって深刻な影響を受けていたのです。大きく揺さぶられていたのです。キリストの再臨を待ち望む信仰がゆさぶられたのです。「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ」。それが教会の問いにもなっていたのです。もちろん、その問いは、ここにいる私たちと無関係ではありません。今なお主は再臨してはおられないからです。当時の教会がこのペトロの言葉を聞かなくてはならなかったとするならば、私たちにはなおさら必要です。

 まずペトロは彼らの「天地創造」という言葉を足がかりに、次のように語っています。「彼らがそのように言うのは、次のことを認めようとしないからです。すなわち、天は大昔から存在し、地は神の言葉によって水を元として、また水によってできたのですが、当時の世界は、その水によって洪水に押し流されて滅んでしまいました」(5‐6節)。

 「地は…水によってできた」というあたりは当時の世界観を反映しているので、今日の私たちとしては理解することが困難です。しかし、それでもなお、全体としてペトロが言わんとしていることは分かります。それは極めて単純なことです。彼らが「天地創造」と言っているように、この世界は神が造られたのであり、神こそが天と地との主なのです。ですから当然、造った御方として裁く権威をもお持ちなのであり、実際にそのことを示された。それがノアの時代の洪水の話です。

 しかし、「滅んでしまいました」とありますが、実際には現在の天と地とが完全に滅ぼされたわけではありません。その意味では、あの洪水は最終的な裁きではなかったのです。ですから、第一の手紙には、キリストが、その時に死んでしまった「捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました」(1ペトロ3:19)という話が出て来るのです。最終的な裁きだったら、それはあり得ないことです。いずれにせよ、この「水による裁き」は最終的な裁きではありません。その意味において、その他に聖書のここかしこに見られる神の暫定的な裁きを代表していると言えるでしょう。

 ということは最終的な裁きは別にある。それが「火による裁き」として表現されているのです。「しかし、現在の天と地とは、火で滅ぼされるために、同じ御言葉によって取っておかれ、不信心な者たちが裁かれて滅ぼされる日まで、そのままにしておかれるのです」(7節)。あざける者たちは「何一つ変わらない」と言っていました。しかし、もし「何一つ変わらない」とするならば、それは神があえて「そのままにしておかれる」のであって、神の最終的な裁きはない、ということにはならないのです。

 そこで「このことだけは忘れないでほしい」とペトロは語り始めます。一つは、「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」ということ。すなわち、神様は私たちと同じ時間感覚の中に生きてはおられないということです。それは既に旧約において語られていたことでした。詩編90編にこのように歌われています。「山々が生まれる前から、大地が、人の世が、生み出される前から、世々とこしえに、あなたは神。…千年といえども御目には、昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません」(詩編90:2,4)。

 ならば、私たちの目に事がゆっくりに見えたり、長い間待っているように感じたりしたとしても、神がのんびりと事を進めているわけではなく、予定が遅れているわけでもないということです。神には神の時があるのです。そして、実際に長い間神様が「そのままにしておられる」としても、それはあくまでも神様が「遅れて」いるわけではなくて、むしろ忍耐して待っておられるのだ、とペトロは言うのです。

 そしてまた、「そのままにしておかれる」とは何もしておられない、ということでもありません。神はあのノアの時と同じように、宣教の期間を定められました。宣教の期間は、神の赦しが宣べ伝えられている期間であり、悔い改めることが許されている期間です。神様はそのために働いておられるのです。

 そして、それはあくまでも神様が定める期間でありますから、それがいつまでであるかを人間は知りません。それはいつでも終わりとなり得るのです。ですから「主の日は盗人のようにやってきます」と言うのが正しいのです。もちろん、これはもともとイエス様が言われたことです。ですから、そのような「主の日」に向かっている私たちとしては、それにふさわしい向かい方があるのです。

 それは「待ち望む」ということです。12節にはこう書かれています。「神の日が来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。」神様が定められる終わりの日を「早める」というのは不思議な表現ですが、言わんとしていることは分かりますでしょう。私たちが悔い改めるようにと主が忍耐しているということならば、主の日を早めるということは私たちが悔い改めることであり、また他の人が主に立ち帰るように福音を宣べ伝えるということであり、そのようにして主と共に働くということに他なりません。

 この世界は神の最終的な裁きのもとにあって終わりとなります。しかし、それは新しい始まりなのであって、新しい天と新しい地の始まりなのです。この罪に満ちた世界は終わるのです。そして「義の宿る新しい天と新しい地」が到来するのです。それゆえに、「わたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです」。

(祈り)

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