ルカによる福音書 12:13‐31
イエス様は言われます。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」(22節)と。
この「食べるもの」「着るもの」は、無いと困るものの代表です。無いと困るもの、不足すると困るものってありますでしょう。いろいろなものが考えられるわけですが、私たちはしばしばそれらのことで思い悩みます。無くなってからではなく、《無くなる前から》思い悩むわけです。だから「思い悩むな」と繰り返されるイエス様の言葉については、「そんなの、無理でしょう」とも思います。
しかし、私たちは「だから、言っておく」という小さな前置きを見落としてはなりません。「思い悩むな」という勧めの言葉は、その前に語られていた話の続きだということです。
あらゆる貪欲に用心せよ
そこでまず13節以下を御覧ください。こう書かれています。「群衆の一人が言った。『先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。』イエスはその人に言われた。『だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。』そして、一同に言われた。『どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである』」(13‐15節)。
ここで「群衆の一人」がしたことは、私たちの目には奇異に映ります。しかし、当時の社会においては決して珍しいことではありませんでした。地域住民のトラブルを解決するために、ユダヤ教の教師が調停人の役割を果たすことはいくらでもあったからです。
さらに言えば、この人の言っていることも常識内の話です。遺産相続に関しては定められている規定があります。この人が「わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」と、訴えているところを見ると、律法によって保証されている彼の相続分を兄弟に騙し取られたということなのでしょう。
そのように、この人がしていることは、社会的に見たら間違ってはいないのです。しかし、イエス様はそこで調停人となることを拒否なさいました。いやそれだけでなく、この出来事を足がかりとして、「どんな貪欲にも注意せよ」と語られたのです。この人としては実に不愉快なことだったでしょうね。この人は当然の権利を主張しているだけだから。どうしてこれが「貪欲」の話につながるのでしょうか。
そこで一つのことに注目したいと思います。ここで主は、「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」と言っているのです。いわゆる貪欲らしい「貪欲」について語っているのではなさそうです。誰の目にも明らかな貪欲ならば、あえて「用心しなさい」と言う必要はないからです。
そのように、「貪欲」の中には、注意を払わないと分からない貪欲があるようです。イエス様は、ごく普通の日常的な事柄、全く当然に思える要求や主張の中にこそ潜む、私たちが気付かないような「貪欲」があることを言っておられるのです。そして、続くたとえ話は、そのことを明らかにするために語られているのです。
16節以下を御覧ください。ある金持ちの家が豊作でした。この人が倉を建て替えることは、ある意味で当然のことです。彼は殊更に貪欲な人でしょうか。いいえ、彼の判断は極めて適切です。しかし、神はその人を「愚かな者」と呼ばれました。倉の再建計画を立てたその晩に、命を失うことになるからでしょうか。豊作も蓄えも無駄になってしまうからでしょうか。いいえ、そうではありません。実は、彼の問題は彼の言葉の中にはっきりと現れているのです。
実は、残念ながら、それは日本語訳の聖書では分からないのです。あえて言葉を加えて訳すならば、実は、彼はこう言っているのです。「どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない。」そして思い巡らしてこう言います。「こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに私の穀物や私の財産をみなしまい、私の命に言ってやるのだ。『さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』と。」
お気づきになりましたでしょう。問題は、くどいほど繰り返されている「私の」という言葉にあるのです。極めつけは、19節です。「自分に言ってやるのだ」と訳されていますが、これは、今申しましたように、「私の命に言ってやるのだ」というのが直訳です。すると、この神様の語られた言葉の意味合いも分かってきます。この人は「私の命に言ってやるのだ」と言う。すると神様は言われるのです。「愚か者よ。お前が『私の命』と言っている、その『お前の命』とやらは、今夜取り上げられるぞ。」
財産は確かに「私のもの」に思えます。豊作で得た物も「私のもの」に思えます。しかし、「命」ほど「私のもの」と思いたいものはないでしょう。他の誰の手にも渡したくない。最後まで自分の思い通りになる「私のもの」であって欲しい。それが「命」です。でも、実際にはどうですか。思い通りにはならないでしょう。この世における「命」。この世における人生。絶対に自分の思い通りにはならない。つまり、本当は「私のもの」ではないのです。私たちは、本当は、分かっているのです。
では誰のものなのでしょう。神様のものです。「お前の命は取り上げられる」。これはもともと「要求する」という言葉です。「返しなさい」と要求することです。つまり、命とは神様から一時的に託されていたものだ、ということです。私たちはその厳粛な事実を認めなくてはなりません。この世における命は神から一時的に託されているものに過ぎない。その命を、では誰が支えていたのか。神様なのです。神様が神様のものをもって、本来神様のものである命を支えてくださっていたのです。しかし、彼はそれを認識しなかった。だから彼はその言葉において「私の、私の」を繰り返していたのです。
そこに人間の「貪欲」があるのだ、と主は言われるのです。一時的に託されているにすぎない《神のもの》を《私のもの》と主張して生きているところにこそ貪欲がある。しかし、「私の、私の」と言っていることは、この世の観点からするならば、たいていは不当なことではないのです。「わたしのお金、わたしが使いたいように使って何が悪いの」。「わたしの命、わたしの体、どう扱おうとわたしの勝手じゃない」。――だから気付かないわけです。それゆえ、そのような貪欲に「注意を払い、用心しなさい」と主は言われるのです。
思い悩むな
それに続いて、「思い悩むな」という話が来るのです。多くの人が悩みと心配を抱えています。しかし、多くの人は自分が殊更に貪欲だとは思っていないでしょう。しかし、22節の「だから言っておく」という言葉は、「貪欲」と「思い悩み」を結びつけるのです。そこに、主が語られる重大なメッセージがあるということです。
主はここで、烏を養われる神について語られます。さらに野原の花をソロモン以上に装われる神様のことを語っておられます。実は、ここで語られていることも、本質的には先のたとえで語られていることと同じなのです。そこには神様から食べ物を受けて生かされている鳥たちがいるのです。自ら労して紡ぐわけではないのに、ただ神によって美しく装われている野の花々がある。彼らの姿こそ、命や体はいったい誰のものであるのかを雄弁に物語っているのです。
そのように、父なる神は、烏さえも生かしていてくださる。烏にさえ、この地上における命を託し、またその命を支えるために必要なものを与えていてくださる。ましてあなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか、と主は言われるのです。また父なる神は、一日で枯れてしまうような草をさえ装われる。まして、あなたがたにはなおさらのことである、と主は言われるのです。この命にもこの体にも父の慈愛のまなざしが向けられ、この地上の命とこの地上の体のために、神から与えられているものがあるのです。すべては神から来ているのです。
しかし、先にも見ましたように、私たちはしばしばすべてが神から来ていることを忘れてしまう。そして傲慢にも身の回りにあるものが本質的に「私のもの」であるかのように主張し始めるのです。「私の、私の」と。この世の目には見えない、隠れた貪欲です。
そして、イエス様はその隠れた貪欲が思い悩みと深く結びついていることを良くご存じだったのです。先に申しましたように、私たちの思い悩みは「無いと困るもの」を巡っての悩みです。だから、思い悩みというものは「欠乏から来る」と考えているものです。食べ物や着る物の不足や欠乏だけではありません。ある時にはお金が足りない。時間が足りない。能力が足りない。夫の愛情が足りない。妻の愛情が足りない。助け手が足りない。周りの人々の思いやりが足りない。――それが思い悩みの種なのだと思っているのです。
しかし、本当は何かが欠けているところに問題があるのではないのです。そうではなくて、むしろ満ちているところに問題があるのです。何が満ちているか。「私の」という言葉が満ちているのです。「私」が満ちて「神」が欠けているのです。そこにこそあらゆる思い悩みの源があるのです。だから、主はここで「信仰の薄い者たちよ」と言われるのです。思い悩みに深く関わっているのは、実は周りの状況ではないのです。何かの不足ではないのです。そうではなくて、思い悩みに深く関わっているのは、神との関係であり信仰なのです。
このように、思い悩みは欠乏そのものから来るのではありません。だから、不足しているものをひたすら求めても思い悩みの解決にはなりません。その不足が満たされても、別の不足によって思い悩むことになるからです。では、どうしたらよいのでしょう。まず求めるべきものがある、と主は言われるのです。「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる」(31節)。
「神の国を求めなさい」。――「神の国」は遠いところにあるのではありません。「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(17:21)と主は言われるのです。「神の国を求めなさい」。その直前には、「あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである」と書かれています。私たちの必要をご存じである神、その神を「わたしたちの父」として、すべてをこの父の手からいただいて、神の支配のもとに感謝して共に生きる生活。そのような父なる神の支配する救いの世界。ただ「神の国を求めなさい」と主は言われるのです。
(祈り)