ペトロの手紙二 2:1‐10a
私たちは使徒信条の最後において「罪の赦し、体のよみがえり、永遠の命を信ず。アーメン」と唱和いたします。そのとおり、私たちは罪の赦しを信じています。そして、神が赦してくださるならば、もはや私たちを滅ぼすものはないと信じています。復活と永遠の命を信じています。神による罪の赦しにはいかなる限界もないことを信じています。どんなに大きな罪を犯した人であっても、神に赦された者として新しく生きることができる。神に赦された者として永遠の命にあずかることができます。
そのように神が罪を赦すことができるのは、神が罪を裁くことのできる御方だからです。このことを忘れてはなりません。罪を正しく裁き、断罪し、滅ぼす権威をお持ちの方だからこそ、その権威をもって他の誰も取り消すことのできない罪の赦しの宣言をすることができるのです。わたしは皆さんの罪を赦し、救うことはできません。私は皆さんを断罪し滅ぼすこともできないからです。
しかし、そのように神が正しく裁かれる御方であり、自分たちもまた神の裁きのもとにあるという事実から目を背けさせる人々は昔からいたのです。「かつて、民の中に偽預言者がいました」(2:1)とペトロは言っていますが、この「偽預言者」とはそのような人たちです。そのような偽預言者の実例は旧約聖書の至るところに見いだされます。例えば預言者ミカはこう語っています。「頭たちは賄賂を取って裁判をし、祭司たちは代価を取って教え、預言者たちは金を取って託宣を告げる。しかも主を頼りにして言う。『主が我らの中におられるではないか、災いが我々に及ぶことはない』」(ミカ3:11)と。神が不正を憎まれ、罪を正しく裁かれる御方だということを抜きにして、「災いが我々に及ぶことはない」と語っているならば、それは偽預言者なのです。また、神は預言者エレミヤを通し、当時の祭司たちや預言者たちについてこう語っています。「彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して、平和がないのに、『平和、平和』と言う」(エレミヤ6:14)。これが偽預言者というものです。
それと同じことが教会でも起こっているではないかとペトロは言っているのです。「同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れるにちがいありません」(1節)。実際には既に諸教会において偽教師の働きは始まっているのです。彼らが持ち込んできた異端の教えが具体的にどのようなものであったかは分かりません。しかし、そのような教師たちの特徴と、彼らの影響がどのような形で教会に現れていたかは明らかです。彼らを特徴づけていたのは「みだらな楽しみ」(2節)です。これは特に性的な放縦を意味しています。彼らが放縦にふけっていただけではありません。彼らは教師ですから、多くの人々がその行いを見倣ったというのです。しかも、その影響は教会内だけに留まりません。そのように乱れた生活をしているゆえに、宣べ伝えられている福音そのものが謗られていたのです。
具体的にどのようなことが行われていたのかは、来週読みます2章後半に書かれています。例えば「彼らは、昼間から享楽にふけるのを楽しみにしています。彼らは汚れやきずのようなもので、あなたがたと宴席に連なるとき、はめを外して騒ぎます。その目は絶えず姦通の相手を求め、飽くことなく罪を重ねています」(13‐14節)というようなことが起こっていたのです。
「宴席」と書かれていますが、もともとこれは教会における愛餐なのです。それが単なるどんちゃん騒ぎと姦淫の温床になっていたのです。彼らはキリストによる罪の贖いを信じていたのでしょう。彼らは確かにキリストによって贖われた者として罪の赦しを信じていたに違いありません。しかし、神が罪を赦すことができるのは、罪を正しく裁く御方でもあるからだという認識が抜け落ちていることは明らかです。
そのような偽教師たちについて、「自分たちを贖ってくださった主を拒否しました」と書かれていることは重要です。繰り返しますが、彼らは確かに主によって贖われた者なのです。しかし、彼らの行為は、その贖ってくださった主を拒否していることになるのだ、というのです。実際には、彼らは贖いを否定していないであろうし、意識して「主を拒否している」わけではないでしょう。主をあからさまに拒否していたら、教会の中において教師であり続けることができるはずがありませんから。そのような「教師」についていくほど皆も愚かではないでしょう。しかし、それでもなお聖書は彼らを「自分たちを贖ってくださった主を拒否しました」と表現しているのです。
その理由は「贖う」ということの意味を考えれば明らかになってまいります。「贖う」とは「代価を払って買い取る」ことです。確かにキリストは代価を払ってくださいました。私たちの罪の負債を代わりに支払ってくださったのです。私たちが罪を赦されたとはそういうことです。しかし、それはまた私たちが主のものとされたということでもあるのです。主のものとされたのなら、もはや自分自身のものではないのです。パウロもコリントの信徒への手紙で言っているとおりです。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」(1コリント6:19‐20)。
そうです。これが主によって贖われたということなのです。しかし、悔い改めようとせず、神を侮り、その体を自分の情欲と放縦にゆだねているとするならば、それは確かに「自分たちを贖ってくださった主を拒否」していることになるでしょう。
そこでペトロは神が正しくお裁きになる御方だということをいくつかの事例を挙げて思い起こさせます。まず罪を犯した天使たちに対して。「神は、罪を犯した天使たちを容赦せず、暗闇という縄で縛って地獄に引き渡し、裁きのために閉じ込められました」(4節)。これは旧約聖書外典の「第一エノク書」という書物に由来する話です。その書物は紀元前2~1世紀に書かれたもので、この手紙が書かれた頃には広く読まれていたものでペトロもそれを例証に用いているのです。次に挙げられているのは、良く知られているノアの箱舟の話です。第三に挙げられているのは、ソドムとゴモラが滅ぼされたという話です。どれもたいへん恐ろしい話です。
恐ろしい話をあえて記しているのは、教会の人たちに偽教師たちとその教えを警戒して欲しいからなのです。かつて偽預言者たちが現れた時、彼らの言葉はミカやエレミヤの言葉よりも歓迎されたのです。同じように偽教師たちの教説は人々を引きつけるかもしれません。しかし、何かが教会において語られる時、それが耳に心地よいかどうかではなく、それが神からのものであるかどうかを聞き分ける耳を持っていなくてはならないのです。神の御心にかなったことが起こっているかどうか見分ける目を持っていなくてはならないのです。
次週の箇所では、実に激しい言葉をもって偽教師たちを糾弾しています。それはどうしても読者にとって、私たちにとって必要なことだから、あえてそうしているのです。彼らに引かれてはならないからです。ペトロは私たちに、神の権威を侮り、自分たちを贖ってくださった主を拒否するようになって欲しくないのです。むしろロトのように心を痛める者であって欲しいのです。
(祈り)