2022年11月27日日曜日

「農夫のように忍耐強く、実りの時を待ち望む」

ヤコブの手紙 5:7‐11

●主が来られるときまで忍耐しなさい
 「兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい」(ヤコブ5:7)と語られていました。今日の箇所において語られておりますこの「忍耐」は、「試練」ということを背景として語られております。この手紙の一章を読みますと、例えば「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています」(1:2)、「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです」(1:12)ということが語られております。

 この試練が、具体的にどのような状況を意味するのかは定かではありません。恐らく、教会に対する迫害を彼らは経験していたことでしょう。あるいは、富める者や権力者たちによる抑圧に苦しむ貧しい人々がいたことでしょう。いずれにせよ、ここで「いろいろな試練」と書かれておりますから、その具体的状況は一つではなかろうと思います。実に様々な場面において、信仰者はその信仰が問われます。試されるのです。この世はキリストを主とし王として従っている世界ではありません。その中において、キリストに従って生きようとするときに、ありとあらゆる事柄が、信仰の試練となり得ます。その点においては、ヤコブの手紙の時代も現代も変わりません。

 そのような「試練」を背景として「忍耐しなさい」と語られております。ところで、新約聖書において「忍耐」と訳される言葉は一つではありません。大きくは二通りに分かれます。一つは「留まる」という言葉に由来します。どんな困難があろうとも、今置かれた状況下にあえて留まること。それを「忍耐」と言います。有名な箇所としては、例えば、「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」(ローマ5:3-4)というパウロの言葉が挙げられます。そこで語られている「忍耐」とは、「留まること」です。

 しかし、もう一つの「忍耐」があります。それは「留まること」というよりも、「待つこと」と関係しています。今日読まれた7節で用いられている「忍耐」という言葉はもともと「気を長く持つ」ことを意味する言葉なのです。

 試練は永遠ではありません。すべての試練には終わりがあります。そのことを知っている人は、試練の中で耐え忍んで待つことができます。試練の向こう側を考えることができます。私たちは、その終わりを聖書において教えられております。私たちが信じるキリストの再臨こそ、究極的にはすべての試練の終わりです。

 もちろん、それは裁きの時でもあります。この世と一つになり、神に敵対しているならば、キリストが到来するその時は、世と共に裁かれる時となるでしょう。しかし、神を愛し、キリストを主とし、その御体に連なり、主を待ち望んでいる者にとっては、まさにキリストの再臨こそ最終的な希望であり、神の報いの時であり、試練の終わりの時に他ならないのです。ですから、ここで「兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい」(7節)勧められているのです。

 それは農夫が忍耐強く実りの時を待つのと同じです。農夫は待つことを知っています。農夫は実りの時までにはプロセスがあることを知っています。種まきの直後に秋の雨が降ります。そして、実が熟す直前に春の雨が降ります。この定められた時を経なくては実りを見るに至りません。実りをすぐに見られないからと言って、畑を投げ出してしまう愚かな農夫はいないでしょう。彼が待つのは、実りの時が来ることを知っているからです。だから忍耐しながら待つのです。

 それは信仰においても同じです。様々な試練は、人に信仰を投げ捨てさせ、神から引き離す誘惑ともなります。だからこそ、その誘惑に屈してはならないのです。ゆえにヤコブは「心を固く保ちなさい」と勧めます。主が定められた終わりの時まで、心を保ち、忍耐しつつ備えて待たねばならないのです。

●互いに不平を言わないように
 そして、次に、「兄弟たち、裁きを受けないようにするためには、互いに不平を言わぬことです」(9節)と勧められています。実は、この手紙を含め、言葉に関する勧めや戒めは少なくありません。人間の舌というものの恐るべき力をヤコブは既に3章で語っています。

 「ご覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。舌は火です。舌は『不義の世界』です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます」(3:5‐6)。そして、「わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません」(3:9‐10)と彼は言います。さらに、4章で、「兄弟たち、悪口を言い合ってはなりません」(4:11)と勧めているのです。

 なぜ言葉についてヤコブが繰り返し語るのかは分かるような気がします。試練の時には、舌を制御することが、困難になるからです。苦しみや困難が、私たちを不平や不満で満たしてしまうということを、私たちはしばしば経験いたします。かつてエジプトを脱出したイスラエルの民が、荒れ野の旅の苦しさの中で、繰り返し不平や不満をつぶやいたのと同じです。

 普段は穏やかに語れるのに、困窮している時には同じように語れなくなります。普段なら全く気に留めないであろう他人の言動が、妙に気に障るようになる。そのような経験はありませんか。しかし、普段ならば気にならないということは、本当の問題は他人の行為や言葉ではなくて、こちらの状態にあるのです。にもかかわらず、往々にして問題は相手にあると私たちは思い込んでしまうのです。

 その結果、悪口や不平が舌という器官を通して言葉となって外に現れるようになります。教会が外からの迫害と圧迫を受けた時、本当の危機は実は外にではなく、内にありました。教会に不平や不満の言葉が満ちるならば、それは確実に教会の交わりを腐らせていくに違いないからです。崩壊は外からではなく内側から起こります。もちろん、試練のもとにあった当時のキリスト者たちには、互いに解決しなくてはならない問題がたくさんあったに違いありません。しかし、不平や不満が互いの関係を建て上げ、教会を建て上げる力となることは絶対にないのです。

 そこで私たちは何を考えねばならないのでしょうか。ヤコブは続けてこう言います。「裁く方が戸口に立っておられます」(9節)。終末におけるキリストの再臨を空間的に表現するとこうなります。キリストが戸口に立っておられます。そして、ある瞬間に、キリストが戸を開いて入ってこられるのです。そこで、キリストは何を耳にするのでしょう。私たちの言葉です。私たちが今しがたまで語っていた言葉です。いや、もう既にキリストはずっと聞いておられたのです。戸口におられたのですから。

 私たちはそのことを知る時、同じことを語り続けることができるでしょうか。不平を言う時には、自分が正しいと思っているものです。その言葉を、裁く方、すなわち再臨のキリストを前にしても、なお語り続けることができるならば、キリストが来ておられない今、口にすることに何ら問題はないでしょう。しかし、本当に主の前でそう言えるだろうか、ということを一度は考えてみなくてはなりません。その意味においても、再臨のキリストを、戸口に立っておられ、今まさに入って来ようとしておられるキリストとして思い描くことは、私たちにとっても大事なことです。

●預言者たちを忍耐の模範としなさい
 そして、再び話は忍耐のことに戻ります。「兄弟たち、主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい」(10節)。旧約聖書に見る預言者たちの姿を考えて見ましょう。彼らは神に召され、神の言葉を語りました。しかし、多くの人々は彼らに耳を傾けませんでした。預言者たちは悔い改めを呼びかけました。しかし、人々は手軽な平和と幸いを求めました。預言者たちは神の裁きを語りました。しかし、人々は耳に好ましいことを語る偽預言者の言葉の方を求めました。預言者たちは国家の滅亡を語りました。しかし、彼らが語った滅亡はすぐに実現したわけではありませんでした。預言者たちは人々の嘲笑と敵意を耐え忍ばなくてはなりませんでした。

 彼らは自分の力によって自分の正しさを示そうとはしませんでした。神の言葉の正しさは神自らが証明されます。彼らは、神の正しい裁きに自らをゆだね、神の時を待ちました。そうです、預言者たちは、まことに神の時を待つ人々でありました。彼らはそのように生き、語り、そして死にました。ヤコブは、預言者たちを指し示し、これが忍耐だと言うのです。

 さらに彼はヨブについて語ります。「忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います」と言って、苦難の人ヨブを指し示すのです。なぜヨブが幸いなのでしょうか。「あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています」(11節)とヤコブは言います。私たちは、神が最終的にヨブの繁栄を回復してくださったことだけを考えてはなりません。もっと重要なことは、ヨブが神にまみえたということなのです。ヨブ記に出てくるヨブの最後の言葉は神に対する次のような言葉です。「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます」(ヨブ42:5‐6)。

 苦しみは私たちを神から引き離す誘惑ともなります。また、そこから生じる不平や不満は、互いの関係を崩壊させる原因ともなり得ます。しかし、苦しみは私たちの信仰を確かにし、純化し、神を目で見るかのように深く知る契機ともなるのです。何が必要なのでしょうか。それは、つぶやかずに神の時を待つ忍耐です。最終的には主が来られるときを待つことのできる忍耐です。

(祈り)

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