フィリピの信徒への手紙 2:1‐11
パウロは今、獄中にいます。もしかしたら、生きて外に出ることはできないかもしれない。そのパウロがひたすら願ったのは、自分が解放されることではありませんでした。フィリピの教会の人々が「心を合わせ、思いを一つ」にすることだったのです。
しかし、人と人とが「心を合わせる」ということは、何と難しいことでしょうか。表面的な争いや混乱をなくすことは、さほど難しいことではないかも知れません。秩序を保つことだけなら上からの強制力によって成し遂げられます。強者が一人いれば秩序は保たれます。しかし、「心を合わせ」ることは、支配力や強制力によって成し遂げることはできません。それは平穏であること以上のことです。それをパウロは教会に求めているのです。
これはある意味で驚くべきことでもあります。教会には様々な人が集まっています。いや正確にはキリストによって集められています。ですからそこに属する人々は、それぞれ生まれ育った環境も違います。生活事情も違います。社会的な思想についても異なる背景を持っています。ある人は奴隷です。ある人は自由人です。ある人はユダヤ人であり、ある人は異邦人です。しかし、そのような教会について、パウロは「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つに」することを本気で願っているのです。
そのようにパウロが語り得るのは、前提があるからです。「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら」(1節)と彼は言うのです。「あるなら」と書かれていますが、それは「あるのだから」という意味です。
彼らはキリストの励ましに既に与っているのです。愛の慰めに与っているのです。これは明らかに、《神の愛の慰め》ということでしょう。そして、聖霊による交わりが与えられているのです。そこに語られているのは、三位一体の神による救いの恵みです。その恵みに共に与っているはずなのです。それが教会です。ならば同じ恵みに与っているものとして、《一つとなっていること》は教会にとって本質的に重要なことなのです。
では、どうしたら良いのでしょう。そこでパウロの具体的な勧めの言葉に耳を傾けましょう。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」(3‐4節)。ある意味では拍子抜けするほど、ありきたりのことしか書かれていません。しかし、そこで考えたいと思うのです。ありきたりのことが本当の意味で問題とされ得るのは、神の御前においてです。この言葉においてライトが当てられているのは、人間の行動の内面にある最も深い動機の部分なのです。それは通常いくらでも繕うことができるのです。「世の人々のためなのだ」と言うことができる。「神のために、キリストのために」と言うことのできるのです。
しかし、本当にそこにあって人を動かしているのは、もしかしたら利己心や虚栄心かも知れないのです。へりくだっている素振りは見せることができるかも知れません。しかし、本当にそこにあるのは傲慢さであり高ぶりであるかも知れないのです。その深い部分が本当の意味で問題とされ得るのは、神の御前において、神との関わりにおいてなのです。ですから、キリストを信じ、神を礼拝する《教会》に、あえてこのようなことが書かれているのです。主の御前において、聴くべき言葉だからです。
それゆえに、パウロはここで話を終えないのです。「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです」(5節)。そう言ってパウロはキリストについて語り始めるのです。と言いましても、これはパウロ自身の言葉ではありません。彼が引用しているのは当時の教会において歌われていた讃美歌であると言われます。
この美しく整ったキリスト賛歌は二つの部分に分かれます。前半は6節から8節です。後半は9節から11節です。この歌と先ほどの「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって…」という勧めとのつながりは明白です。この歌の中に「自分を無にして」という言葉や「へりくだって」という言葉が出てくるからです。まさに《まったく利己心に生きなかった方》《徹底的にへりくだられた方》としてキリストの姿が提示されているのです。
しかし、パウロは、単に「このイエスさまの姿に倣いましょうね」という意図で、この歌を引用しているのではありません。8節の「十字架の死に至るまで」という言葉に注目に値します。先ほどこの歌は前半後半に分かれると申しましたが、実は前半部分の方が少し長いのです。歌としてのリズムを乱しているのは、この「それも十字架の死に至るまで」という言葉です。引用する際にパウロが書き加えたのです。つまり、ここにパウロの強調点があるということです。
パウロが「十字架の死」について語る時、彼の念頭にあるのは、「わたしたちの模範として死なれた」ということではありません。「わたしたちの罪のために死なれた」ということです。ここに歌われているのは、キリストの従順を通して実現された、十字架の死を通して実現された、神の救いの御業なのです。ですから、最終的に、「すべての舌が『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」という言葉に至るのです。
キリストは神と等しい者であることに固執しようとは思われませんでした。御自分を無にして、僕の身分となられました。人間と同じ者になられました。そして、徹底的に低くなられて十字架の死に至られました。何のためですか。誰のためですか。私のためであり、あなたのためです。
それは罪人である私たちを救うためでした。腹の底にある利己心によって動き、虚栄心を満たすために事を図り、大義名分によって高ぶりを覆い隠している、罪深い私たちを救うためでした。人を貶めて満足し、自分が高くされることばかりを追い求めている、そのような私たちを救うためでした。そのような私たちの罪を贖い、私たちが罪を赦されて神と共に生きるようになるために、キリストは神の栄光を捨てて十字架の死に至るまで従順に、神の御心に従われたのです。
これは恐らくフィリピの教会の人たちが、繰り返し歌ってきた讃美歌なのでしょう。彼らが礼拝をする時に、パンを裂き、ぶどう酒を分け合い、キリストの死を覚えつつ礼拝するなかで、この歌をうたってきたのでしょう。まことに私たちのために十字架にかかってくださったイエスこそ、私たちの主であると歌ってきたのでしょう。そのように、彼ら自身が口にしてきた歌を、彼ら自身が口にしてきた信仰を、今、パウロは彼らに指し示すのです。
そして、これを読んでいる私たちにも指し示しているのです。そのように歌い、そのように信仰を言い表し、そのようにキリストの体と血にあずかる者として、私たちは先の勧めの言葉をも受け取るのです。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」。そこにおいて初めて一つとなることができるのです。
2021年9月29日水曜日
祈祷会用:フィリピの信徒への手紙 2:1~11
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