フィリピの信徒への手紙 4:1‐9
パウロは今日の箇所で繰り返しフィリピの信徒たちに「喜びなさい」と書いています。「喜びなさい」という命令文には、たいていその理由が付随してくるものです。理由があるからこそ「喜びなさい」と言えるのでしょう。ところが、パウロはただ「喜びなさい」と言っているのではなく、「常に喜びなさい」と言うのです。これはおかしな命令文です。なぜなら、一般的には人が喜ぶことのできる理由は常にあるわけではないからです。
それどころか、この手紙を書いているパウロにしても、この手紙を受け取っている教会にしても、むしろ喜べない理由の方が、遙かに多かったに違いないのです。この直前には何と書いてあるでしょうか。「わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい」(2節)。彼らはかつて力を合わせて、福音のためにパウロと共に戦ってくれていた人たちです。しかし、このように書かなくてはならないのは、今はこの二人が同じ思いを抱けずに、むしろ仲違いしていたからでしょう。それだけではありません。外からの迫害もあります。パウロはこの時、獄中にいるのです。思えば福音の宣教のために働き始めてからというもの、彼の人生は苦難の連続でした。
しかし、パウロは「常に喜びなさい」と言うのです。なぜでしょう。私たちはパウロの言葉をよく聞かなくてはなりません。彼はただ「常に喜びなさい」と言っているのではなく、「主において常に喜びなさい」と言っているのです。「主において」という言葉は、パウロの手紙に実によく出てくる言葉です。同じ言葉が他の箇所では「主に結ばれて」と訳されています。ここで語られているのはキリストとの関わりです。キリストを通しての神との関係です。
信仰によってキリストと結ばれているのです。キリストの内にいるのです。そのキリストは、私たちを愛し、御自身を献げてくださった御方です。私たちの罪の贖いのために十字架にまでおかかりくださった御方です。その御方と結ばれて、私たちは罪を赦された者として、救われた者として、愛されている者として生きることができるのです。その「主において」という事実は、主に結ばれているという事実は、何が起ころうと変わらないのです。だからパウロは「喜びなさい」と言うのです。いや「喜びなさい」だけではありません。「常に喜びなさい」とさえ言うのです。変わることのない理由があるからです。
そして、さらにパウロは言います。「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい」(5節)。主から来る「喜び」はただ「喜び」として人の内に留まるのではありません。その「喜び」は「広い心」となって他者へと向かうものとなるのです。
それはある意味では当然のことでしょう。主によって罪を赦された喜びは、他者を赦す心を生み出すのでしょう。主によって受け入れられた喜びは、他者を受け入れる心を生み出すのでしょう。主の寛容が喜びの源なら、その喜びは寛容を生み出すのでしょう。
「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい」とは、要するに、「主にあって常に喜びなさい。その喜びをもって人々の中で生きていきなさい」ということに他ならないのです。頑張って広い心になろうとすることではなくて、大事なのは「喜び」なのです。そして、その源である「主」なのです。ですからここでパウロは一言付け加えるのです。「主はすぐ近くにおられます」(5節)と。
古代教会において合い言葉のように用いられていた言葉がありました。「マラナ・タ」という言葉です。これは「主よ、おいでください」という意味です。それはキリストの再臨を待ち望む祈りです。キリストが再び来られる。そのことをずっと遠い所からやってくるように思い描く人がいるかもしれません。しかし、初代教会が持っていたイメージは異なるのです。そうではなくて、「戸の外に立っておられるキリスト」なのです。もうすぐにでも戸を開けて入ってこられる。救いをもたらすために入ってこられる。そのようなイメージです。
それは二千年経ってしまった今でも同じはずなのです。やがて主が来られる。今にでも来られる。その時、私たちははっきりと知ることになるのです。罪が赦されたということはどういうことであるか。主によって愛されているということがどういうことか。救われているとはどういうことか。やがて私たちは知ることになるのです。そして、それは思いの外近いのかもしれません。「主はすぐ近くにおられます」。
そしてさらにパウロは、「思い煩うのはやめなさい」と語ります。喜ぶことと思い煩わないことは、同じ主に結ばれた生活の裏と表です。積極的な側面と消極的な側面と言っても良いでしょう。どちらも大事です。片方だけでは成り立ちません。ですので、「主において」と語ったパウロは、さらに具体的な勧めとして、「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」と勧めるのです。つまり、「主において」生きる生活は、祈りと礼拝という具体的な形を取るのだということです。
パウロはここで「神に打ち明けなさい」と言っています。これは単なる願いごと以上のことです。それは「感謝を込めて」という言葉が伴っていることからも分かります。それは「主において」ささげる祈りです。それは主によって赦され、救われた感謝と喜びをもってささげる祈りであるということです。それゆえに、それはまた「神は私たちを愛しておられて、私たちに最善を為してくださる」という神への信頼に基づいてささげられる感謝の祈りともなるのです。
では、そのように感謝をもって「神に打ち明ける」時に、いったい何が起こるのでしょうか。パウロはこう言うのです。「そうすれば、あらゆる人知を越える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」(7節)。人において本当に守られなくてはならないものは何か。それは「心と考え」です。ここで語っているパウロは、獄中にいるのです。いつ引き出されて処刑されるかも知れぬ身なのです。彼は自分の命を自分で守ることができません。しかしパウロは、人知を越える神の平和によって、心と考えとを守られているのです。そのような人をこそ、私たちは「神に守られている人」と呼ぶべきでしょう。そして、それは私たちにも起こることなのです。
そして、パウロは「終わりに、兄弟たち」と呼び掛け、「すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい」(8節)と勧めます。そして、今日お読みした一連の勧めを次のように締めくくります。「わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます」(9節)。
「平和の神」が私たちと共におられるとはどういうことであるのか。今日の聖書の御言葉によく耳を傾け、思い巡らしたいと思うのです。それはどこにおいて経験されるのか。私たちが耳にしている勧めの言葉をただ聞くだけでなく、実行するところにおいてです。
(祈り)
2021年11月3日水曜日
祈祷会用:フィリピの信徒への手紙 4:1~9
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