ヨハネの黙示録 4:1-11
今日お読みしたのは、聖書の最後に置かれている「ヨハネの黙示録」です。今日は4章が朗読されました。「その後、わたしが見ていると、見よ、開かれた門が天にあった」(1節)と書かれていました。ヨハネが見ているのは幻です。この書物に描かれているのは、ある意味では、極めて個人的な特殊な神秘体験です。しかし、それがこのように聖書に記されて、代々の教会に読み継がれてきました。それは、ただ神秘体験をした個人にのみ関わることではないからです。それは諸教会にとって、さらに言えば後々の教会にとっても大事なことだから、今日まで読み継がれてきたのです。しかもこの書物の冒頭を読みますと、明らかにこれは個人的に読まれるためではなく、礼拝において朗読されるために書かれていることが分かります。今、私たちがこうしているようにです。
共にイエスと結ばれて
この幻を見たヨハネは、その時、大きな苦しみの中にいました。信仰のゆえに迫害を受け、パトモス島に抑留されていたのです。1章9節以下には次のように記されています。「わたしは、あなたがたの兄弟であり、共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである。わたしは、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた。ある主の日のこと、わたしは“霊”に満たされていたが、後ろの方でラッパのように響く大声を聞いた。その声はこう言った。『あなたの見ていることを巻物に書いて、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの七つの教会に送れ』」(1:9‐11)
今お読みしたように、今日の聖書箇所に耳を傾ける上で心に留めておくべき、とても大事なことが少なくとも二つあります。一つは、それが「主の日」だったということです。日曜日です。日曜日ですけれど、ヨハネはかつてしていたように、皆と一緒に集まって礼拝することはできません。流刑の身ですから。しかし、彼はそれでも主の日であることを覚えて祈っていた。ですから主の日において「わたしは“霊”に満たされていた」と書かれているのです。
そして、もう一つ、彼は自分のことを「共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである」と言っていることです。ヨハネは流刑の苦しみの中にあります。しかし、彼は孤独ではありません。彼は他のキリスト者と結ばれていることを知っているからです。「共にイエスと結ばれて」いるのです。特にそのことを思うのは「主の日」なのでしょう。同じ主の日に、エフェソやスミルナ、ペルガモンなど、それぞれの地において集まって礼拝している人たちがいることをヨハネは知っているのです。ある人たちは危険の中で、命がけで集まって、礼拝している人たちがいることを知っているのです。その人たちと体は離れているけれど、一緒に主に結ばれて、一緒に礼拝していることをヨハネは知っているのです。それが主の日に共に礼拝するということなのです。
私たちは毎週、ここに集まっている私たち自身のためだけでなく、ここに集まることのできない人たちのために祈ります。自宅で礼拝をささげている人たちを覚えて祈ります。入院している人たち、自宅で療養している人たち、年老いた人たちのためも祈ります。それは毎週繰り返されていますが、決して単なる形式的なことではありません。私たちは主の日に礼拝する時に、ここに集うことのできない兄姉とも互いに結ばれているのです。いやそれだけでなく、同じように主の日に礼拝している他の教会、他の国々の教会とも結ばれているのです。さらには天と地の聖徒たちが結ばれているのです。それが主の日の礼拝なのです。ですからヨハネは、天において主を礼拝している人々の幻を見せていただいたのです。それが今日お読みした箇所に書かれていることです。
開かれた天の門
今日の聖書箇所は次のような言葉で始まっていました。「その後、わたしが見ていると、見よ、開かれた門が天にあった」(1節)。これ一つ取っても、本当に嬉しい言葉ではありませんか。天の門は開かれているのです。閉ざされてはいないのです。ヨハネはそれを見せていただいたのです。
天の門は開かれている。誰が開いてくれたのでしょう。3章7節にこんな言葉があります。「聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持つ方、この方が開けると、だれも閉じることなく、閉じると、だれも開けることがない」(3:7)。これはイエス様のことです。イエス様こそが鍵を握っているのです。そのイエス様が天の門を開いてくださったのです。本来だったら閉め出されてしかるべき私たちのために、十字架にかかって、罪を贖ってくださって、罪の赦しを与えてくださって、その門を開いてくださったのです。主が開いてくださったのならば、もはや誰も閉じることはできないのです。
ヨハネが主の日に見たのは、この開かれた天の門でした。それはヨハネという個人の特殊な体験です。しかし、先にも申しましたように、その幻が書かれ礼拝において朗読されているのは、私たちのためでもあるのです。天の門が開かれているのを私たちは肉の目で見ることはできません。しかし、確かに救いの門、天の門はこうして主の日に礼拝している私たちに向かって大きく開かれているのです。
逆に言えば、もし天の門が開かれていないなら、私たちがしていることは所詮この世の次元のことに過ぎないということでしょう。しかし、実際にはそうではないのです。天の門が開かれているのです。私たちのこの集まりは天と関わっているのです。天はここに集まっている私たちに対して開かれているのです。あるいは、今週集まっている皆さんが、来週、再来週、それぞれの場所で主の日の礼拝をささげるとき、皆さんに向かって確かに天の門は大きく開かれているのです。独り抑留されていたヨハネが見せていただいたようにです。
玉座に座っておられる方
そして、さらにヨハネが開かれた門の次に見たのは玉座でした。「すると、見よ、天に玉座が設けられていて、その玉座の上に座っている方がおられた」(2節)。玉座というのは王の座のことです。すなわち王としての神を見たということです。神が王として支配しているのを見たのです。
現実に肉眼で見えるのは人間が支配する世界です。ヨハネが生きていた当時でありますならば、それはローマ皇帝が頂点に立って支配している世界です。パトモス島に抑留されているヨハネもまた、ローマ皇帝の権力のもとに、その悲惨かつ孤独な生活を強いられていたのです。当時の教会は、この世の権力に翻弄されている、嵐の中の木の葉のような存在でしかなかったのでしょう。しかし、ヨハネはそこで神の玉座を見たのです。その王なる神を礼拝する、天の礼拝を見たのです。そうです、本当の支配者はまぎれもなく王なる神であることを目の当たりにしたのです。
ヨハネは言葉を尽くして、彼が目にした神の玉座の栄光を描写しようと試みます。「その方は、碧玉や赤めのうのようであり、玉座の周りにはエメラルドのような虹が輝いていた」(3節)。もちろんこの宝石による描写はあくまでも地上の言葉です。地上の言葉では十分に表現できるわけありません。しかし、それでも言わんとしていることは分かります。栄光に輝くまことの王がおられる。礼拝とはそのまことの王を仰ぐことに他ならないのです。
私たちはまことに不遜なものです。いつの間にか人間のすることがすべてであるかのように生活しているのです。人間の力が最終的にこの世界を左右するかのように、人間のすることが自分の人生を最終的に左右するかのように生きているのです。しかし、そうではないのです。天には玉座があるのです。最後の言葉を持っているのは王なのです。そのことをへりくだって認めてまことの王を仰ぎ望み礼拝する。それが主の日において私たちがしていることなのです。
冠を投げ出して
またヨハネはそこに24人の長老たちを見ました。また玉座のまわりに四つの生き物を見ました。それらについては実に不思議な描写が続いています。これら長老たちが誰であり、四つの生き物がいったい何であるのかは定かでありません。しかし、彼らが誰であれ、何であれ、本当に注目すべきは彼らが礼拝するその姿なのだろうと思います。
この四つの生き物は、夜も昼も絶え間なくこう言い続けていたというのです。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方」(8節)。さらに、24人の長老たちは、玉座に着いておられる方の前にひれ伏して礼拝し、自分たちの冠を玉座の前に投げ出してこう言っていたというのです。「主よ、わたしたちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ、御心によって万物は存在し、また創造されたからです」(11節)。
このような描写を読みますと、私たちは礼拝するということについて、まだまだ知るべきことのごく一部しか知らないのだと思わされます。私たちは礼拝することの大きな喜びをまだまだ本当は知らない。これから味わい知るべきことがたくさん残されているのです。
ここに書かれていることは、要するに、私たちが天の門が開かれているのを知り、本当に私たちが神の玉座の御前にあって礼拝していることを知るならば、もう昼も夜も絶え間なく神を誉め讃えずにはいられなくなるということでしょう。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方」。そのように延々と賛美せずにはいられなくなる。一つの讃美歌を4節まで歌って終わり、ではないのです。この得体の知れない生き物の姿は、真の喜びをもって主を礼拝することを知っている者の姿なのです。
そして、主を礼拝することを本当に知るならば、冠をかぶっている者がもう自分の冠をその前に投げ出したくなるということなのでしょう。もう自分の栄光など、どうでもいい!自分が受けるべき報いなど、どうでも良くなるのです。自分がどう評価されたか、どういう扱いを受けたか、どう報いられたか…そんな思いを後生大事に抱えているとするならば、それはまだまだ主を礼拝する本当の喜びを味わい知っていないということなのだろうと思います。
ここに描かれている礼拝を私たちは天と一つになって共におささげしたいものです。私たちは信仰生活において、もっともっと主の日に共に礼拝をささげることの尊さ、その真の喜びを味わい知る者となりたいものです。
(祈り)