フィリピの信徒への手紙 1:12-26
パウロは獄中にいます。自由を奪われ、さらには命までも脅かされています。パウロの身に起こったことは、誰の目にも福音の前進を阻むものとして映ったことでしょう。しかし彼は言うのです。「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい」と。「前進」という言葉は、道を切り開いて進むことを表す言葉です。ある人は「開拓的前進」と訳しています。パウロが投獄されることによって、今まで道がなかった所に道ができるのです。そのようにして、福音が前進していくのです。
その前進はどのようにして起こったのでしょうか。パウロはこう続けます。「つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り…」(13節)。そこに新しい出会いが生まれました。ローマの兵士たちとの出会いでした。彼は監禁されている間、四六時中ローマ兵の監視下に置かれることになったからです。一説によれば、監視は六時間毎の四交代制で行われたと言います。彼らはその時間、いやでもパウロと共にいなくてはなりませんでした。
「わたしが監禁されているのはキリストのためである」とパウロは彼らに語ります。そのキリストとは誰であり、何をしてくださったかを語ったことでしょう。四交代制でしたら、一日四人には語ることができます。やがてキリストとパウロとの関係は、兵営全体に知れ渡ることとなりました。それはパウロが投獄されなかったら起こりえなかったことでした。福音を阻むように見える出来事の中で、神は福音の進む道を切り開いて前進させて行ったのです。
いや、それだけではありません。パウロはさらに続けます。「主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです」(14節)。
この手紙に繰り返されている言葉、それは「喜び」です。彼らは、自由を奪われ、命さえ奪われるかもしれないのに、なおそこで喜びをもって生きていたパウロの姿だったのです。そこに人々が見たのは、人間の自由よりも、そしてこの世の命よりも、もっと大いなるものだったのです。この世の命よりもはるかに価値ある、キリストによる永遠の救いだったのです。それゆえに、彼らは「恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになった」とパウロは言います。そのようにして神は福音を前進させてくださったのです。
パウロはさらにこう続けます。「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです」(15‐17節)。
なんと、パウロが身動きの出来ない時に、こんなことが起こっていたのです。パウロはそのために苦しんできたのでしょう。しかし、驚くべきことに、パウロはそれでもなおこう言うのです。「だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます」(18節)。それはなぜか。それが純粋に愛の動機からのことでなくても、人間の不純な動機が入り込んでいたとしても、それでもなお福音は前進することを知っているからです。
だから自分が獄中にいることについて、パウロは全く気に病んでいません。獄中にあろうがなかろうが、パウロが願うのはただ一つのことだけなのです。「そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています」(20節)。
「これまでのように今も」とパウロは言います。パウロはこれまで、各地を駆けめぐって御言葉を宣べ伝え、人々を救いに導き、教会を建て上げ、牧会者を指導してきました。それがパウロの「これまで」でした。しかし、「今」は違います。獄中にある「今」、同じことはできません。確かに人のなし得ることは、その時々において異なります。ですから、パウロは「わたしの働きによってキリストが公然とあがめられるように」とは言いません。「働きによって」でしたら、「生きるにも」は分かりますが「死ぬにも」という言葉は続き得ません。
だから「わたしの働きによって」ではなく「わたしの身によって」と彼は言うのです。最終的に意味を持つのは、その人の人格を含めた存在そのものなのです。その存在そのものによってキリストがあがめられることです。「あがめられる」と訳されているのは「大きくされる」という意味の言葉です。パウロの願いは自分が大きくされることではなく、キリストが大きくされることだったのです。
「これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるように」――その根底にあるのは、次の言葉に言い表されているパウロの信仰です。「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」(21節)。
「生きるとはキリスト」の対極にあるのは、「生きるとは《わたし》」というあり方です。キリストが大きくなることではなく、《わたし》が大きくなることこそが生きることの意味として据えられるなら、人の目にも、自分の目にも、《わたし》が大きくなり得なくなった時に、生きることの意味は失われます。生きることの意味を見失った人もまた、「死ぬことは利益なのです」と言うかもしれません。「もう死んだほうがましだ」と。しかし、それは「生きるとはキリスト」に続く「死ぬことは利益なのです」とは、全く意味が異なります。
苦難に次ぐ苦難の中にありますから、パウロも確かにこう言っています。「一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい」(23節)。それはパウロの正直な心情であったに違いありません。しかし、そこで「この世を去って、キリストと共にいたい」とパウロが言っているその「キリスト」とは、彼が「生きるとはキリスト」と言っているその「キリスト」に他ならないのです。だから、「これまでのように今も」どのような境遇に今置かれていたとしても、この身によってキリストがあがめられるために、この世にあるこの身をもってどう生きるのかが重要になるのです。