2021年10月3日日曜日

「先に神の国に入る人々」

マタイによる福音書 21:23‐32

権威についての問答
 今日の聖書箇所は次のように始まります。「イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。『何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか』」(23節)。彼らがそのような難癖をつけてきたのは、その前日にひと騒動あったからです。それは12節以下に記されています。「それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。そして言われた。『こう書いてある。「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。」ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている』」(12‐13節)。

 神殿の境内で両替したり、動物を売っていた人たちは、無断で商売していたわけではありません。きちんと神殿当局の許可を得て行っていたのです。ところが、イエス様はそのような商売人たちを境内から追い出してしまわれました。しかも、彼らを追い出した神殿の境内で、自ら人々を教えていたのです。そのようなことをすれば、当然、問われることになるでしょう。「誰がそんな権威をお前に与えたのか」と。ここに書かれているのは、そのような場面です。

 この問いに対するイエス様の答えは明白でした。「何の権威で」――神の権威によってです。「だれがその権威を与えたのか」――神が与えたのです。しかし、イエス様は彼らの質問に直接答えることはしませんでした。イエス様が「神からの権威だ」とでも言おうものなら、彼らは直ちにその発言を捕らえて問題にし始めるであろうことを知っていたからです。

 それゆえに、イエス様は逆に彼らに問い返されました。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか」(24‐25節)。

 「ヨハネの洗礼」については、この福音書の3章に記されています。洗礼者ヨハネという人物がユダヤの荒れ野に現れ、人々に悔い改めを呼びかけ、洗礼をさずけていました。すると多くの人々が洗礼者ヨハネのもとを訪れ、自らの罪を言い表し、悔い改めて神の赦しを求め、洗礼を受けて新しく生き始めたのです。

 しかし、皆が皆ヨハネのもとに行ったわけではありません。当然のことながら、行かない人たちもいたわけです。ここに出てくる「祭司長や民の長老たち」はその代表です。彼らは上に立つ人々です。権威ある者として、人々を教え諭してきた人たちです。彼らは、ヨハネのもとに行って、自分が神の赦しを必要とする罪人であることを人々の前で認めることを望みませんでした。だから主は彼らに問うたのです。「ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか」と。

 彼らは論じ合いました。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから」(25‐26節)。答えに窮した彼らは、「分からない」と答えるしかありませんでした。するとイエス様は言いました。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」。

 見事です。こうしてイエス様は彼らの悪意に満ちた質問をもののみごとに退けたのでした。しかし、彼らの質問を退けるだけならば、これで対話を打ち切ってよかったはずです。ところがイエス様は彼らを手放しませんでした。むしろイエス様のほうからさらに彼らに問いかけたのです。「ところで、あなたたちはどう思うか」と。そして、二人の息子のたとえを語られたのです。私たちはこのたとえ話に耳を傾けた上で、再び最初のやり取りに戻ってくることにいたしましょう。

二人の息子のたとえ
 28節以下の話は至って単純です。ここだけを聞くならば、「口先だけではだめなのだ。行動が伴わなくてはならないのだ」という単純な教訓話に聞こえます。恐らく彼らはそのように聞いていたのでしょう。だから「どちらが父親の望みどおりにしたか」という問いかけに、すぐさま「兄の方です」と答えたのです。

 実際、彼らは口先だけでなく行動こそが大事だと考えていたのです。律法を守り、神の言われるとおりに生きることが大事だと考えていたのです。ですから、律法を守らない徴税人や娼婦たち、罪人たちを見下していたのです。自分たちのように、神の望みどおりのことを行い、正しく生きている者こそが、神の国に入るのだと信じて疑わなかったのです。

 ところがイエス様が続けて語られたことは、まさにそのような彼らにとって、びっくり仰天するような言葉でした。「彼らが『兄の方です』と言うと、イエスは言われた。『はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」(31節)。つまりイエス様は、先ほどのたとえ話で、「お父さん、承知しました」と答えたけれど、出かけなかった弟の方が「祭司長や民の長老たち」だと言っているのです。そして、「いやです」と答えたけれど、後で考え直して出かけた兄の方が「徴税人や娼婦たち」だと言っているのです。

 そんな馬鹿な!彼らはきっとそう思ったに違いありません。しかし、イエス様は次のように、その理由を説明されました。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった」(31‐32節)。

 つまり問題は、何が父の望んでいることなのか、何が父の御心なのか、ということなのです。神は洗礼者ヨハネを遣わして義の道を示しました。父が望んでいたのは、洗礼者ヨハネを信じ、その義の道に従うことだったのです。その「義の道」とは何でしょう。それは自分が罪人であることを認め、神に立ち帰り、赦しを求めることなのです。それこそがメシアを迎えるための準備なのであり、救いに至る義の道なのです。

 徴税人や娼婦たちは、自分が罪人であることを認め、罪の赦しを願い求め、洗礼を受けました。彼らはそれまで、父に向かって「いやです」と言ったあの兄のような生き方をしてきた人です。しかし、最終的に「父の望みどおり」のことをしたのです。

 一方、祭司長や民の長老たちは、この世的に見れば、いわゆる「良い子」です。「お父さん、承知しました」とすぐさま答えるあの弟のような「良い子」なのです。しかし、父の望みどおりのことはしなかった。ヨハネを通して与えられた呼びかけに応えようとはしなかったのです。自分が悔い改めねばならない罪人であるとは認めなかったのです。いや、もしかしたら心の内では自分の本当の姿を認めていた人がいたかも知れません。しかし、結局はそれを公に現そうとはしませんでした。真に神と共に生きることよりも、世間体や体面の方が大事だったからです。彼らは良い子でしたが、「父の望みどおり」のことをしませんでした。

 だから主は言われたのです。「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」と。すなわち、徴税人や娼婦たちの方が、先にメシア・キリストに出会うのです。先に罪の赦しに与るのです。神の恵みに与るのです。先に神と共に生き始めるのです。先に救いに与るのです。先に神の国に入るのです。

再び権威の問答に戻って
 さて、最初の問答に戻ります。イエス様が洗礼者ヨハネに言及したのは、単に彼らの質問を退けるためではありませんでした。先に申しましたように、もしそうならば、この二人の息子のたとえは不要なのです。イエス様が洗礼者ヨハネのことを持ち出したのは、イエス様に与えられている権威が何であるかを示すためだったのです。神がキリストに与えた権威は、罪の赦しを与えることのできる権威なのです。

 そのことを良く示しているのが、この福音書の9章に出てくる物語です。主は御自分のもとに連れてこられた中風の人に、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」(9:2)と言われたのです。これを聞いた律法学者は「この男は神を冒涜している」と思いました。罪の赦しを宣言するということは、自らを神と等しいものとすることに他ならなかったからです。しかし、主はそのような彼らの心を見抜いてこう言われたのです。「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」(9:6)。そして、中風の人を癒されたのでした。

 このように、神がキリストに与えた権威、それは最終的には罪の赦しをもたらすための権威なのです。キリストを信じるということは、罪の赦しを与えることのできるキリストの権威のもとに身を置くことに他ならないのです。当然のことながら、それができるのは、自分が罪人であり、罪の負債を背負っていることを認める人だけです。神に赦していただいて、新しく生きたいと願う者だけなのです。すなわち、ヨハネの示した義の道を受け入れる者だけなのです。

 だからイエス様は彼らに問うたのです。「ヨハネの洗礼は、天からのものか、それとも、人からのものか」と。ヨハネの示した義の道を退ける者に対して、神の権威について語っても意味がないからです。だから彼らに対して、「何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」と主は言われたのです。

 しかし、それはイエス様が彼らを見捨ててしまわれたということではありませんでした。イエス様はそれで話を打ち切らなかったのです。二人の息子のたとえを語られたのです。これはイエス様の最後の呼びかけであったとも言えます。なぜなら既にキリストはエルサレムにおける最後の一週間に入っているからです。「あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとはしなかった」――これは裏を返せば、今からでも考え直して、ヨハネの示した義の道を受け入れ、キリストの権威のもとに身を置くようにとの呼びかけに他ならないのです。

 「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」と主は言われました。――そうです、確かに彼らの方が先でしょう。しかし、後からでも良いのです。「私は正しい。私はこのままで良いのだ」と言い張らないで、自分が赦しを必要としている罪人であることを認め、罪を赦すことのできる御方のもとに身を置いて、そして神の国に入るべきなのです。それが父の望んでおられたことだったのです。そして、その父の望みは、今日もなお変わりません。父は今日の私たちにも語っておられるのです。「子よ、今日、ぶどう園へ行きなさい。今日、父の望んでいることを行いなさい」と。
(祈り)

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