2021年10月31日日曜日

「何が人を汚すのか」

マルコによる福音書 7:14-23

食べ物によっては汚されない
 主は言われました。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」(マルコ7:14‐15)。

 「外から人の体に入るもの」というのは、食べ物のことです。「外から人の体に入るもの」については、程度の差こそあれ、私たちは皆、様々なことを気にするだろうと思います。賞味期限を気にします。添加物についてとても気にする人もいるでしょう。それらは皆、健康に関することです。

 そのように、健康に関わる様々なことは気にしますが、食べ物を食べる時に、「これによってわたしは汚れるだろうか」と心配する人は、私たちの中には恐らくいないだろうと思います。「食べ物が人を汚す」という概念は私たちの生活にはないからです。ところがイエス様の時代のユダヤ人、特にファリサイ派のユダヤ人は違うのです。食べ物によって人は汚れると信じている。そして、それは重大なことなのです。

 例えば、食事の前には手を洗います。これは衛生のためではありません。宗教儀式です。洗わない手で食事をしますと、その食事によって汚れるのです。いや、それだけではありません。この章の3節以下にはこんなことが書かれています。「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある」(3‐4節)。市場では宗教的に汚れた人たち、例えば異邦人などに接触したかもしれません。だから身を清めて食事をしないと「汚れる」のです。

 さらに言うならば、何を食べるかも重要なのです。ユダヤの世界では、食べてはいけない「汚れた」食べ物というものがあるのです。その代表は豚です。トンカツを美味しそうに食べるなんて、もっての他。そんなことをしたら汚れてしまいます。今日でも、厳格なユダヤ人は、例えばやたらにその辺でパンを買って食べたりしません。ラードが入っている可能性があるからです。これがユダヤ人の戒律の世界です。

 そのような背景を考えますと、今日お読みしたイエス様の言葉がいかに過激な言葉かが分かりますでしょう。「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものなんて何もない」。そうイエス様は言い放ったのです。みんな目を丸くして、「そんなこと言っちゃっていいんですか!」と言いたくなるような言葉なのです。

口から出る言葉によって汚される
 しかし、イエス様がそのような過激なことを言われたのは、その次を語るためなのです。主はこう言われました。「人の中から出て来るものが、人を汚すのである」。さて、イエス様は何を言わんとしておられるのでしょう。弟子たちには、よく分からなかったようです。ですから、群衆が帰った後に、こっそりとイエス様に尋ねました。すると主はこう答えられたのです。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される」(18‐19節)。

 「外に出される」と訳されていますが、本当は「便所に出される」って書いてあるのです。食べ物は心の中に入るわけじゃない。腹に入って便所に落ちるのだ。――本当に汚れるか汚れないかを考えるならば、確かに重要なのは「腹」じゃなくて「心」ではありませんか。イエス様は極めて現実的な話をしているわけです。

 では「心」が問題ならば、何が心の中に入って人を汚すのでしょうか。「食べ物」ではなくて、「人の中から出て来るもの」だと主は言われるのです。人の心から出て来るものです。「中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである」とイエス様は言われるのです。

 「心から出て来る悪い思い」とは何でしょう。その後には、具体的に、「みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など」と書かれています。しかし、口に入るものとの対比で考えられているのですから、「人間の心から、悪い思いが出て来る」と言う時に、まず主の念頭にあったのは、特に「言葉」のことであったと考えられます。 すなわち、具体的な悪として現れてくる以前に、既にその心の中にある「悪い思い」が問題なのです。そして、「悪い思い」が心から出て来る時の「言葉」が問題なのです。

 ですからマタイによる福音書では、もう少し詳しくこう表現されているのです。「すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す」(マタイ15:17‐18)。これならはっきりしています。「口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す」。口から出て来る言葉の話です。言葉こそ人を汚すのです。先にも申しましたように、ユダヤ人はどんな食物を口に入れるかに細心の注意を払いました。しかし、それ以上に注意しなくてはならないことがあるのです。どんな言葉を心に入れるかです。言葉によって心は汚されるからです。

 イエス様がこう言われた理由は分からなくもありません。ユダヤ人の戒律の世界を想像してみてください。表向きはとても秩序だった清い世界です。しかし、戒律の世界は同時に簡単に裁き合いの世界になるのです。神への感謝と喜びをもって守っているのなら良いでしょう。しかし、ただ義務として、自分が嫌々仕方なく守っていることがあると、他の人が同じように守っているかどうかが気になるようになります。守っていないと許せない。批判したくなる。取り決めやしきたりの多い社会は、簡単に悪口と陰口に満ちた社会になるものです。

 また悪口と陰口に満ちた社会では、人からどう見られるかが気になります。他の人からどう見られるかが気になって気になって仕方ない。すると外側だけを一生懸命に繕うようになります。しかし、無理が生じますから、見えないところで悪いことをするようになったりいたします。ですから、イエス様が言っておられる、「みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別」などは、恐らくユダヤ人社会に生きる彼らにとって、決して無縁のことではなかっただろうと思うのです。

 そして表向きだけきれいな戒律社会において、互いの裁き合い、悪口、陰口、人に対する非難、中傷に耳を傾けていたらどうなるでしょう。あるいは隠れて行っている姦淫やみだらな行いについての話に耳を傾けていたら、またそれらを心に入れながら一緒に話をしていたら、確実に心は汚れていくと思いませんか。それこそゴミ箱のようになっていくことでしょう。

 そう考えますと、これは私たちにとっても無縁の話ではありません。実際どうでしょう。私たちは、普段、どのような言葉を心に入れているのでしょうか。悪口や陰口の輪に加わっている時、誰かそこにいない人を一緒に中傷している時、そのことが自分を汚していることには気づかないものです。いやむしろ、そこで妙な連帯感さえ生まれるかもしれません。あるいは自分が外れていると、今度は自分が悪く言われているのではないかと心配になって、ついつい話に加わってしまうことも起こり得ることでしょう。

 しかし、そのようなことをしていれば、心は確実にゴミ箱になっていきます。それは確かです。そして、それは本人だけで終わりません。ゴミ箱は悪臭を放ち始めるのです。やがてそこからゴミが溢れ出ます。心から溢れたものが口から出て来るようになる。すると、今度は他の誰かを汚すことになるでしょう。「口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す」のです。

 ですから、どのような言葉を心に入れて生活するのかということは、本当は私たちの生活を大きく左右し、さらには人生そのものを左右する大問題であるはずなのです。

心に入れるべきは神の御言葉
 ところで、今日の聖書箇所は「それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた」(14節)という言葉から始まっていました。そのように、今日の箇所はその前に書かれていることの続きなのです。今日の箇所の直前には、主の語られたこんな言葉が記されています。「こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている」(13節)。「あなたたち」というのはファリサイ派の人々と数人の律法学者たち(1節)です。

 このことがあったので、イエス様はもう一度群衆を集めて語られたのです。宗教的指導者たちが「神の言葉を無にしている」からです。そして、それは群衆においても同じだからです。「人の中から出て来るものが、人を汚す」という現実が起こっているのは、そもそも本当に心に入れなくてはならないものを入れていないからなのです。「あなたたちは神の言葉を無にしている」と。律法を与えられていながら、聖書を与えられていながら、そこから本当に神の言葉を聞こうとしていない。聞いていない。それこそがそもそもの問題なのです。

 本日10月31日は宗教改革記念日です。なぜ10月31日なのかは週報に書きましたので、後ほどお読みください。かつてキリスト教会においても神の言葉が無にされていた時代がありました。そのような教会において、宗教改革が起こったことは必然でした。

 今から約500年前、宗教改革者たちが手がけた大きな事業の一つは、キリスト者が自国語で聖書を読めるようにすることでした。それまではラテン語で読まれていたのです。マルティン・ルターは聖書をドイツ語に訳しました。何のためでしょう。教会が神の言葉を無にしないためです。神の言葉を聞くためです。本当の意味で心に入れるべきものを入れるようになるためです。

 それは宗教改革を経て、神がここにいる私たちにも与えてくださっている、とてつもなく大きな恵みです。しかし、私たちはその恵みを本当の意味で受け止めて生活しているのでしょうか。私たちはどのような言葉を心に入れて生活しているのでしょうか。

(祈り)

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