イザヤ書 49:7-13
2021年最後の主日となりました。年末年始は一つの区切りです。区切りがあるということはありがたいことです。少なくとも過ぐる365日を振り返り、次の365日をどう生きるかを考える機会となりますから。そこで、今日は同じように一つの時代の区切りを迎えていた人々が耳にした預言者の言葉を通し、私たちへの主の語りかけを聞きたいと思います。
前に進むのか、それとも留まるのか
本日の礼拝におきましてはイザヤ書の49章が読まれました。今日お読みした箇所の背景となっている一つの区切りとはバビロニア帝国の滅亡です。ネブカドネツァル二世の時代に諸民族を次々に支配下において巨大化していったバビロニア帝国は結局のところ長くは続きませんでした。内部において反乱が繰り返され、紀元前6世紀後半には既に内側から崩壊しつつあったのです。その一方において、新勢力として台頭してきたのはキュロス率いるペルシアでした。そして、紀元前539年、ついにペルシア軍が都バビロンを占領し、バビロニア帝国の歴史は終わりを告げることとなったのです。代わってペルシアの時代が到来したのでした。
これはバビロンに捕囚となっていたユダの人々の置かれていた境遇が大きく変化することを意味しました。というのも、バビロニアの支配とは異なり、ペルシアの王キュロスは被占領民族に対して非常に寛容な政策を採ったからです。彼は諸民族の文化と宗教を重んじ、また故郷への帰還と再建を許可したのでした。かつてバビロニアの支配下にあった人々にとって、ペルシアの王キュロスは新しい支配者であるよりは、むしろ解放者であったのです。バビロンに捕囚となっていたユダの人々にとっても同じでした。彼らもエルサレムへの帰還と神殿の再建が許されたのです。
捕囚の民が解放されることについては、既に預言者が語ってきたことでした。その預言の言葉はイザヤ書40章以降に記されています。ちょうど二週間前、主日礼拝においてイザヤ書40章前半が読まれました。そこにおいて「慰めよ、わたしの民を慰めよとあなたたちの神は言われる」(40:1)と語られていましたが、その慰めとは具体的には捕囚からの解放を意味しました。神がなさろうとしていることについては、44章の終わりにはっきりと語られています。主はこう言われるのです。「キュロスに向かって、わたしの牧者、わたしの望みを成就させる者、と言う。エルサレムには、再建される、と言い、神殿には基が置かれる、と言う」(44:28)。
エルサレムが再建される。神殿も再建される。それは50年近く捕囚であった人々にとっては、まことに信じ難い言葉であったに違いありません。しかし、預言者は人々が信じようが信じまいが、とにかく語り続けたのです。神の言葉こそが永遠に立つことを信じて、忍耐強く語り続けたのです。そして、ついに時は満ち、歴史が動きました。先ほど申しましたように、キュロスはバビロンを征服し、翌年、出された勅令によって捕囚の民は解放されたのです。彼らはエルサレムに帰還することができる。再建することができるのです。
しかし、神の恵みによって実現した捕囚からの解放を、すべての人々が喜んだわけではありませんでした。一つの区切りに立った時、人は二通りに分かれるのです。これを機に前に進む者がいる。しかし、同じところに留まる者もいるのです。
繰り返しますが、彼らは50年近く捕囚であった人々です。異国の地の生活とはいえ、それなりに生きてきたのです。生活も成り立ってきたのです。既にその地に根ざした産業もありました。また、ダニエル書に出て来るダニエルや友人たちのように、中にはある程度高い地位に就いている人もいたのです。「何を好きこのんでバビロンを離れ、厳しい過酷な旅へと出発しなくてはならないのか。むしろ、このままでよいではないか。」そのように言う人がいたとしても不思議ではないでしょう。
実際、エルサレムに帰還したからといって、そこでの生活が保障されていたわけではないのです。それでもなお神を信じて一歩を踏み出すのか。それとも同じところに留まるのか。神に期待し神の御業を見るために前に進んでいくのか。それとも「今のままでいいじゃないか」と言って同じところに立ち続けるのか。彼らはその問いの前に立たされていたのです。
彼らが直面していた問いは、ある区切りに人が立たされた時、いつも直面せざるを得ない問いなのでしょう。ここにいる私たちにとっても同じです。前に進むのか。同じところに留まるのか。2022年を迎えようとしています。そこから始まる365日、神に従って前に進むために具体的な一歩を踏み出すのか。それともこの一年と同じような一年をもう一度繰り返すのか。はっきりしていることは、この繰り返しのトータルが私たちの一生だということです。一生を終える時に、今と同じところに居るつもりなのか。それとも神の御心に従って一歩でも前に進むつもりでいるのか。年の区切りに立つ私たちが問われているのはそういうことなのでしょう。
わたしの救いを地の果てまでもたらす者に
そこで私たちが考えねばならないもう一つの大事なことがあります。私たちがどちらを選ぶかは、ただ私たち自身だけに関わっているのではない、ということです。
今日の朗読箇所は7節からでしたが、この言葉は6節と切り離すことはできないのです。6節の終わりにはこう書かれていました。「わたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする」(6節)。直接的には預言者に対する言葉ですが、ただ預言者個人ではなく、これは預言者の言葉を聞いている帰還民に対する主の御心でもあるのです。
主はただ彼らをエルサレムに帰還させようとしているだけではないのです。ただエルサレムを再建させようとしているだけではないのです。そうではなくて、解放された人々を通して、全世界に神の救いが伝えられることこそ、神が望んでおられることなのです。そのような神の大きな目的のもとにあって、7節以下の言葉は語られているのです。
7節において、彼らについてはこう語られていました。「イスラエルを贖う聖なる神、主は、人に侮られ、国々に忌むべき者とされ、支配者らの僕とされた者に向かって、言われる」(7節)。
確かにそのとおりなのです。捕囚の民は、「人々に侮られ、国々に忌むべき者とされ、支配者らの僕とされた者」です。そのような彼らがエルサレムを再建するのは実に困難なことであるに違いありません。しかし、バビロンを後にしてエルサレムへと向かうことは、ただ彼ら自身のためではないのです。そうではなくて、諸国の人々が神を知り、神を畏れ敬うようになるためなのです。先ほどの言葉はこう続きます。「王たちは見て立ち上がり、君侯はひれ伏す。真実にいますイスラエルの聖なる神、主があなたを選ばれたのを見て。」
もともと力ある者が大きなことを実現したとしても、そこに神のリアリティは見えてはこないでしょう。彼らが人々に侮られている捕囚の民であるからこそ、神が彼らを選び、神が彼らを通して働かれたのだということが見えてくるのです。
主は言われました。「わたしは恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。わたしはあなたを形作り、あなたを立てて、民の契約とし、国を再興して荒廃した嗣業の地を継がせる。捕らわれ人には出でよと、闇に住む者には身を現せ、と命じる」(8‐9節)。ここで繰り返されているのは「わたしは…あなたを」という言葉です。原文ですとより顕著です。主語はあくまでも神なのであって人間ではありません。ここに語られているのは神の御業なのです。
しかし、その神の御業は、人間が神に従い、自ら一歩を踏み出していく時に現れるのです。9節後半以下には次のように書かれていますでしょう。「彼らは家畜を飼いつつ道を行き、荒れ地はすべて牧草地となる。彼らは飢えることなく、渇くこともない。太陽も熱風も彼らを打つことはない。憐れみ深い方が彼らを導き、湧き出る水のほとりに彼らを伴って行かれる。わたしはすべての山に道をひらき、広い道を高く通す」(9‐11節)。彼らが飢えることもなく、渇くこともないのは、「憐れみ深い方が彼らを導」いておられ、「彼らを伴って行かれる」からなのです。そして、立ちはだかる山に道が開かれるのは、彼らが同じところに留まるのではなく、神に従って歩んでいくからこそ実現することなのです。そのように、神に従う時に、人は神の御業を見るのです。
そして、繰り返しますが、それはただ彼らだけのためではないのです。神は御自分の救いを「地の果てまで」もたらそうとしておられるのです。彼らは、そのような神の目的にこそ思いを向けなくてはならないのです。
さて、ここにいる私たちは何を考えているのでしょう。私たちの思いはどこに向けられているのでしょう。信仰者が自分の救いのことだけを考え、教会が自分たちの救いのことだけを考えるならば、何も荒れ野に向かって旅立つ必要はありません。立ちはだかる山に向かって一歩を踏み出す必要もないでしょう。同じところに留まってもう一年過ごしてもよいのです。一生の終わりが来るまで同じところに留まっていたとしても、自分の救いのことだけを考えているならば、何ら問題はないのでしょう。
しかし、私たちの信仰生活は自分の救いだけに関わっているのではないのです。主は御自分の救いを地の果てにまで至らせようとしておられるのです。私たちが来たる一年をどう生きるのか、どのような信仰生活を送るのか、私たちが同じところに留まっているのか、それとも神に導かれて「湧き出る水のほとり」に伴われていくのかは、この世界の救いに関わっているのです。
この年末年始が、私たちにとって単なるカレンダー上の区切りではなく、私たちが信仰の一歩を踏み出す区切りとなりますように。
(祈り)