フィリピの信徒への手紙 1:1-11
今日は「フィリピの信徒へ手紙」の冒頭部分をお読みしました。最初に挨拶があり、3節から手紙の本文に入ります。原文においては「わたしは感謝します!」という言葉から始まります。これは実に印象的な書き出しです。さらには「あなたがた一同のために祈る度に、喜びをもって祈っています」(4節)と言うのです。なぜでしょう。その理由は5節に書かれています。「それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです」(5節)。
パウロが二回目の伝道旅行においてフィリピを訪れた時、彼らに初めてイエス・キリストの福音が宣べ伝えられました。彼らは福音を聞いてキリストを信じ、彼らの信仰生活がスタートしました。それは彼らが始めたことと言えなくはありません。しかし、それ以上に重要なことは、神が始められた善き事があるということです。神の救いの御業が始まっているのです。「福音にあずかっている」とはそういうことです。
ですから、パウロはその神の御業に目を向けてこう言うのです。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」(6節)。そうです、だから「わたしは感謝します!」と言っているのです。神に感謝しているのです。
そのように神が始められた善き業がある。完成へと向かう神の善き業が進行中である。その神の御業に目を向けることは重要です。しかし、もう一方において、彼らが福音を信じて実際に信仰生活をスタートし、それが継続しているという人間の側の側面に目を向けることもまた重要です。パウロはここで「最初の日から今日まで」という言葉を使っているのです。
この世における様々な困難や誘惑の中にあってなお、共に集まり、神を礼拝し、新しい命に生きる共同体に連なっている――それがここで語られていることに他なりません。フィリピの教会には、後に見るように、実際には問題が山積していました。パウロとの関係も常に良好であったわけではありませんでした。しかし、パウロは彼らを思い起こす度に喜びをもって祈るのです。彼らが「今日まで」福音にあずかり続けていること、信仰生活を続けているということがどれほど大きなことかが分かっているからです。それゆえに喜びをもって祈っているのです。
そのようにパウロが「最初の日」だけでなく「今日まで」を重く見ているのは、その先に「キリスト・イエスの日」があるからです。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」(6節)。
「キリスト・イエスの日」というのは、終末におけるキリスト再臨の日です。神が定められた終わりの日です。私たちがキリストと相見えることになる終わりの日です。その日までに、善い業を始められた方がその業を成し遂げてくださると言うのです。そのようにして、私たちが「キリスト・イエスの日」に向けて備えられるのです。
具体的にパウロはどのようなことを考えているのでしょうか。それは続く祈りの言葉によく現れています。9節以下をご覧ください。
「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように」(9‐11節)。
パウロは「愛がますます豊かになるように」と祈ります。しかも、「知る力と見抜く力とを身に着けて…愛がますます豊かになるように」と祈るのです。「知る力」というのは「知識」とも訳せる言葉です。「見抜く力」というのは、鋭い感覚をもって判断することのできる判断力です。この二つが必要なのは、そこに書かれているように「本当に重要なことを見分けられるように」(10節)なることが必要だからです。
愛は打算を越えます。愛は時として愚かになることでもあります。しかし、それは単なる熱狂や暴走とは一線を画します。本当に愛が豊かとなるためには、知る力と見抜く力が必要なのです。時として感情に振り回されない冷静な鋭い判断力が必要とされます。実際、それらを抜きにした「愛」なるものが、単に人迷惑なだけであったり、あるいは人をだめにしてしまうことがどれだけあるか知れません。神に対する愛や献身のの名のもとに、今日に至るまでどれだけ思慮を欠いた破壊的な行為がなされてきたことでしょう。最終的に何が本当に重要なことかが分からないままで、「愛が豊かになるように」なることはないのです。
そして、その「本当に重要なことを見分けられるように」ということに続いて、先に申しました「キリストの日に備えて」という言葉が続くのです。そもそも、本当に重要なこと、とは何でしょうか。それは最終的に「キリストの日」において、キリストが重要と見なしてくださることでしょう。それゆえパウロは、「キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり」と続けるのです。
「愛」について語られる時、そこでまた「清さ」が語られるということは大事なことです。なぜなら、この世においては、愛の名の付く愛ならぬものがいくらでもあるからです。「清い者」と訳されている元の言葉は、「太陽のもとにおいて調べられたもの」を意味する言葉です。光にさらされても大丈夫なもの、ということです。私たちが愛と呼び、本当に重要だと呼んでいるものは、愛そのものであるキリストの光に照らされて、それでも大丈夫であるのか。それでもなお愛と呼べるのか。そのことが問われるのです。
さて、こうしてみますと、「愛が豊かになる」とサラリと書かれていますが、とてつもなく大きな課題であることが分かります。果たして、私たちはこの言葉を受け止めきれるのでしょうか。しかし、私たちはそこで、パウロがこのことを「祈っている」という事実を忘れてはならないのです。
このように書いているパウロ自身、「キリストの日への備え」が人間の努力によっては完成され得ないものであることを良く知っているのです。ですから、パウロは祈りの最後をこう締めくくるのです。「イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように」(11節)と。ここには「私たちの努力が実を結んで」とは書かれていないのです。「義の実」はイエス・キリストによって与えられるのです。
先に見てきたように、神によって善い業が既に始められているのです。そして、始められた方がその業を成し遂げてくださるのです。そのように信じてパウロは祈っているのです。同じように私たちも祈るのです。信じて祈り続けるのです。
(祈り)
2021年9月8日水曜日
祈祷会用:フィリピの信徒への手紙 1:1~11
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