コロサイの信徒への手紙 1:1‐8
コロサイという町は現在のトルコ共和国の西部に位置していた町で、エフェソからそう遠くないところにありました。コロサイの教会はパウロが開拓した教会ではありません。コロサイの人々に福音を伝えたのはパウロの同労者でありますエパフラスという人です(7節)。しかし、そのような教会にパウロがあえて手紙を書き送ったのは、その教会に大きな問題が起こっていたからでした。誕生して間もない教会に、異端の教師たちが入り込んできたのです。そのためにコロサイの信徒たちの信仰は危機に晒されていたのでした。本当は自ら訪ねていって直接会って話をしたかったことでしょう。しかし、4章3節に書かれていますように、彼は牢につながれていたのです。そのような状況において書き送られた手紙、それがコロサイの信徒への手紙です。
しかし、他の手紙と同様に、パウロはまず感謝から書き始めます。何を感謝しているのでしょう。4節と5節に書かれていますように、コロサイの信徒たちが「キリスト・イエスにおいて持っている信仰」と「すべての聖なる者たちに対して抱いている愛」とそれらの基となっている「天に蓄えられている希望」について、神に感謝しているのです。
第一に、「キリスト・イエスにおいて持っている信仰」。原文の直訳は「キリスト・イエスにある信仰」となります。これは一体何を意味するのでしょうか。ただ単に「神を信じる信仰」と表現するのと、「イエス・キリストにある信仰」と表現するのでは、どこが違うのでしょう。
一般的に人々が「信仰」と言う時、それはもちろん「神を信じること」を意味しているのでしょうが、「神を信じている」という言葉の内容は人によって大きく異なります。多くの場合、「神を信じている」と言っても、「神の存在を信じている」という程度のことかもしれません。しかし、聖書の言うところの「信仰」は、ただ単に「神が存在することを信じる」ということではありません。大切なのは、その神との関係なのです。私たちと神との関係はどうなっているのでしょうか。後に読むことになります1章21節にはこのように記されています。「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行ないによって心の中で神に敵対していました。」これが人間の現実なのです。人間のあらゆる問題の根はここにあるのです。すなわち、神との正しい関係を失っていることです。
しかし、神は私たち人間との関係を回復しようと望まれたのです。ここに神の憐れみがあります。神の憐れみは具体的な形を取りました。私たちの救いのために御子キリストをお遣わし下さったのです。そしてキリストは私たちの罪を代わりに負って十字架にかかられました。このようにして、私たちのすべての罪は贖われました。それゆえ、私たちがキリストを信じ、キリストの救いの恵みに与るとき、私たちの罪は赦され、神との交わりが回復されるのです。このキリストのゆえに、神との交わりに生きることができるのです。キリストのゆえに、神は私たちの父(2節)となり、私たちは神の子供とされるのです。
ですから、私たちにはイエス・キリストによる救いの恵みが必要なのです。キリストの中に、その恵みの中に入れていただくことが必要なのです。それが「キリスト・イエスにある」ということなのです。そのようにキリストの恵みのうちに生きることが「キリスト・イエスにある信仰」なのです。コロサイの人たちは既にこの恵みに入れられているのです。それゆえに神に感謝しているのです。
第二に「すべての聖なる者たちに対して抱いている愛」について考えてみましょう。パウロが「聖なる者」と言う時、それはキリスト者一般を指しています。では、パウロはなぜここで「すべての人々に対して抱いている愛」と言わないで、「すべての聖なる者たち」すなわちキリスト者に対して抱いている愛と言っているのでしょうか。むしろ愛は教会の中に限らず、すべての人に向かうべきではないでしょうか。
もちろんそうです。しかし、考えてみてください。キリストにある兄弟を愛することができなくて、すべての人を愛することが出来るでしょうか。この世の集まりでありますならば、自分の好き嫌いで集まったり離れたりすればよいでしょう。自分に良くしてくれる人にだけ近づいていれば良いでしょう。争ったり憎んだり妬んだりしても何ら心を痛める必要もないでしょう。しかし、教会は神が呼び集められ、キリストによって贖われた共同体です。私たちの好みによって集まったわけではありません。主権は神にあります。神が私たちをキリストにあって兄弟姉妹とされたのです。ですから、そこでこそ本当の意味で愛が問われるのです。自分を中心とし、自らを義とし、他者を断罪する、傲慢な「わたし」が打ち砕かれてこそ、「すべての聖なる者に抱いている愛」と呼べるものが生まれるのです。
実際、コロサイの教会の場合には奴隷と呼ばれる人たちがいました。奴隷の主人たちもいました。ある人は裕福であり、ある人は差別され抑圧されていた人々でした。そのような様々な人が、キリストによって罪が贖われ救われた者として、共に礼拝をしていたのです。キリストによって救われる直前まで争っていた人々が、救いに与ってからは共に神を礼拝していたのです。そこにおいて彼らが愛を示していたということがどういうことであるか、想像できるでしょうか。「すべての聖なる者に抱いている愛」とはそういうことなのです。これは人が努力して造り出したものではありませんでした。明らかに神のみ業でした。パウロはこのみ業を覚え、感謝しているのです。
そして、彼らの信仰と愛を根底から支えていた土台をパウロは「天に蓄えられている希望」と表現しています。ここには「あなたがたが天に蓄えた希望」とは書かれておりません。天に《蓄えられている》希望です。ここでいう希望とは、神の国に入れられ、神の栄光に与る希望です。それは明らかに私たちが善行を積んで引き替えに得られる類のものではありません。ですからすでに神によって用意されているのです。コロサイの信徒はその確かな希望を与えられていました。この希望が彼らの信仰と愛をしっかりと支えていたのです。それは明らかに神の御業でした。パウロはこの御業を覚え、感謝しているのです。
神は福音の宣教を通して、これらの御業をなされました。これらはすべてエパフラスが行って伝えた福音の実りでした。ちなみに、「エパフラス」とは「エパフロディト」の短縮形です。フィリピの信徒への手紙に出て来た、瀕死の病気になったあのエパフロディトかもしれません。いずれにせよ、人間による宣教の業を通して、神の御業が現れることとなるのです。ですから、パウロは続けてこのように言うのです。「あなたがたにまで伝えられたこの福音は、世界中至るところでそうであるように、あなたがたのところでも、神の恵みを聞いて真に悟った日から、実を結んで成長しています」(6節)。
福音は世界中至るところで実を結んで成長しています。その福音はこの日本にまで、ここにいる私たちにまで伝えられました。私たちにおいても、この福音の実りが確実に現われ、成長することを期待すべきです。すなわち、天に蓄えられている希望にしっかりと支えられ揺るぎないものとされている、「イエス・キリストにある信仰」そして「すべての聖なる者に抱いている愛」から生まれて来る実が豊かに実ることをひたすら求めるべきなのでしょう。そして、さらに外に向かって成長していくことを期待し、ひたすら求めるべきなのです。そのようにして、私たち自身、福音を担い、伝えていく者となるのです。
(祈り)
2021年11月17日水曜日
祈祷会用:コロサイの信徒への手紙 1:1~8
Labels:
コロサイの信徒への手紙,
新約聖書