2021年11月28日日曜日

「終わりを見つめつつ現在を生きる」

テサロニケの信徒への手紙一 5:1‐11

身を慎んでいましょう
 教会の暦では今日から待降節(アドベント)に入ります。教会暦においては一年の初めということになります。しかし、この季節はむしろ「終わり」について思い巡らす期間とされてきました。世の終わりにおける「キリストの再臨」を思う季節です。

 そのような待降節の最初の主日に読まれたのは次のような言葉でした。「兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです」(1‐2節)。

 福音書においてもイエス様がこう言っておられました。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである」(マルコ13:32‐33)。

 「その日、その時はだれも知らない」。「子も知らない」。イエス様も知らない。しかし、もし仮にイエス様が知っていたとしても教えなかったに違いありません。なぜなら、イエス様が一番おっしゃりたいのは「目を覚ましていなさい」ということだからです。それは「終わり」ではなく「現在」に関することです。終わりの日を特定したならば、人が問題とするのは「その日」でしょう。しかし、その日が教えられていなければ、常に「現在」が問題となります。それこそが主の意図するところなのです。

 ですから、今日お読みしたパウロの手紙でもこう書かれています。「従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう」(6節)。ここには「目を覚ます」という言葉と共に「身を慎む」という言葉が出てきます。これは酔っていないこと、しらふであることを意味する言葉です。と言いましても、これは禁酒の勧めではありません。酔っていないということは、要するに、現実的に生きているということです。

 現実的に生きるとはどういうことか。それは「終わりを見つめつつ現在を生きる」ということです。なぜなら「終わり」が必ず来るというのが「現実」だからです。私たちの人生の終わりが先に来るのか、世の終わりが先に来るのかは分かりません。しかし、終わりは必ず来る。その終わりを考えずに生きることは、聖書の観点から言えば現実逃避なのであって、それは酔っているのと変わらないのです。

 私たちは、終わりが来ないかのように生活している日常から、繰り返し、引き出されなくてはなりません。そして、繰り返し、現実の中に正しく据え直されなくてはなりません。主の日の礼拝というのは、ある意味でそのような時と場でありますし、アドベントもまた、そのために繰り返し与えられている特別な季節であるとも言えます。

 そのように、繰り返し現実の中に正しく据え直されて、私たちが見つめるべき「終わり」は、2節において「主の日」と表現されています。それは神が最終的に正しく世を裁かれる日に他なりません。それは私たちの罪が本当の意味で明らかにされる日でもあります。それは人間のごまかしがもはや通用しなくなる日です。それゆえにまた、それは今日の聖書箇所にありますように、人間が口にする「無事だ。安全だ」という言葉もまた通用しなくなる日でもあります。終わりが来ないかのように生きているなら、それが現実的ではなかったことが明らかになる日でもあります。

 そのような「主の日」が来るのです。しかし、私たちはただ恐怖におののきながらその日を見つめるのではありません。私たちに伝えられていることがあるからです。伝えられている良き知らせがあるからです。今日の箇所にも書かれていました。「神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです」(9節)。そのことを私たちは既に知らされているのです。

 「主イエス・キリストによる救いにあずからせる」ために、神はキリストを死に渡されました。10節には、「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです」と書かれています。つまりその日が来たときに、私たちが「目覚めていても眠っていても」すなわち、生きていても死んでいても、私たちが主と共に生きることを、神は望んでくださったのです。そのようにして、「主の日」を恐るべき時ではなく、喜びをもって待ち望むべき時としてくださったのです。5節にあるように、「光の子、昼の子」としていただいたとは、そういうことです。

信仰と愛と希望
 ならば、私たちはこの恵みを無駄にしてはならないのです。私たちは、「昼の子」としていただいたのですから、昼に属する者として生きることが求められているのです。それゆえにこう語られているのです。「しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう」(8節)。

 私たちは終わりをしっかり見つめつつ現在を生きるために、特にこの言葉を心に留めたいと思います。ここには、パウロがしばしば用いる三つの言葉が出てまいります。それは「信仰」と「愛」と「希望」です。これらを武具のように身に着けなさい。かぶりなさいと言うことです。

 実は「信仰」と「愛」と「希望」がセットで出て来るのはこの手紙において初めてではありません。1章にも次のような表現において出てきます。「わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです」(1:2‐3)。

 そこには「信仰によって働き」という言葉が出てきました。直訳すると「信仰の行い」となります。また「愛のために労苦し」とも書かれています。直訳すると「愛の労苦」です。そして、「希望を持って忍耐している」と書かれていました。直訳すると「希望の忍耐」となります。「信仰の行い」「愛の労苦」「希望の忍耐」。そのように、「信仰」「愛」「希望」は単に心の中の出来事ではありません。具体的な形を取るのです。「信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう」という言葉を聞く時にも、そのことを念頭に置いておく必要があるのです。

 「信仰の行い」。――もちろん、私たちは「行い」によって救われるのではありません。聖書が次のように語っているとおりです。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです」(エフェソ2:8-9)。そのように、救いは一方的な神の恵みによるのであり、その恵みを信じる信仰によるのです。しかし、一方的な神の恵みによって救いにあずかったのならば、そこには当然、感謝の応答として行いが生まれてくるはずです。それが「信仰の行い」です。

 この世の原理はギブ・アンド・テイクです。何かを「行う」ならば「報い」を求める。しかし、そのようなギブ・アンド・テイクを前提にした行いではなくて、純粋に神への感謝から生まれる「信仰の行い」を主は望んでおられる。そのような「信仰の行い」が私たちの人生を形作り、教会を形作るものとなることを主は望んでおられるのです。それこそが、信仰によって救われた者が信仰を身に着けるということなのです。

 次に、「愛の労苦」。――愛するということは、単に好きになることではありません。自分のために誰かを求めることを聖書は「愛」と呼びません。聖書において「愛」が「労苦」と結びつけられていることを、私たちは心に刻んでおく必要があります。それは他者に仕えることと結びついているということです。ならばその源は、神でありキリストであると言うことができます。主は「仕えられるためではなく仕えるために」来られたと言われました(マルコ10:45)。私たちから始まっているのではありません。初めにキリストにおいて現された神の愛の労苦があるのです。神の愛の労苦のゆえに、私たちは今あるを得ているのです。その愛の労苦に応えて私たちが愛する者となり、他者のために愛の労苦を担う者となっていくこと、それこそが愛を身に着けるということなのです。

 そして、「希望の忍耐」。これもまた味わい深い言葉です。「忍耐」について語られているのは苦しみがあるからでしょう。この世においては苦しみがある。それは信仰者においても同じです。いや、迫害の時代には、信仰のゆえにより大きな苦しみの中に置かれることもあったのです。そして、私たちも良く知っているように、苦しみは人を神から引き離す力として働きます。その意味で試練は誘惑ともなり得ます。そこで必要なのは信仰に留まる忍耐です。

 その忍耐はどこから来るのか。それは「希望」なのです。希望こそ苦しみに打ち勝つ力となるのです。特に今日お読みした5章においては「救いの希望」と書かれていました。終わりを見つめつつ現在を生きる。その「終わり」には既に申しましたように、神による完全な救いがあるのです。どのような苦しみの中にあっても、そこから目を離さない。救いの希望を絶対に手放さない。それが「救いの希望を兜としてかぶる」ということです。

 そのように、「信仰」と「愛」と「希望」を身に着けるように勧められているのは、既に与えられているからです。与えられていないものを身に着けることはできませんから。既に与えられているものを、私たちはこの世の生活において、本当の意味で自分のものにしていくのです。そこで重要なのは次の勧めです。「ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい」(11節)。

 人が信仰者として生きるには、他の信仰者の助けを必要です。信仰と希望と愛を自分の身に着けるためには、手を貸してくれる他者の手が必要です。私たちはそのような「お互い」となるべく、集められているのです。信仰を励まし合い、支え合う信仰の友を求めましょう。そして、自分自身が信仰を励まし合い、支え合う誰かの友となることを求めましょう。本当の意味で終わりを見つめつつ現在を生きるためには、そのことが必要なのです。

(祈り)

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