コロサイの信徒への手紙 1:9-14
今日の箇所にはパウロの祈りが記されております。これは今日の私たちにも大きな意味を持っています。信仰者として何を切に求めるべきかを教えてくれるからです。しかし、今日は祈りの内容に入ります前に、先に13節14節をお読みしたいと思います。というのも、ここにパウロの祈りの根拠が明らかにされているからです。この部分は当時の教会における信仰告白の一部であると言われています。パウロはコロサイの人たちに、主から教会に与えられている正統的な信仰を思い起こさせているのです。その信仰こそが、パウロの祈りの根拠であり、またこの後に展開していく手紙の内容の根拠となっているのです。
ここには父なる神が私たちに与えてくださった救いが、実に簡潔に表現されています。救いが必要なのは救われなくてはならない状態にあるからです。それをこの信仰告白では「闇の力から」と表現しています。つまり人間は闇の力のもとにあるのだ、ということです。ここに書かれていることに一番近いのは、恐らく使徒言行録26章16節以下でパウロが証ししているキリストの言葉でしょう。
「起き上がれ。自分の足で立て。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、これからわたしが示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである。…それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである」(使徒26・16‐18)。
ここで、「闇から光へ」という言葉が「サタンの支配から神に」と言い換えられています。このように、闇の力とは神に敵対する力であり、サタンの支配に他なりません。私たちがそのような闇の力から救われるためには、より大きな権威のもとに移されなくてはならないのです。そして、そのように父なる神はしてくださったと言うのです。父なる神の愛する御子、すなわち復活されたキリストの御支配のもとにおいてくださったのです。復活のキリストこそ「天と地の一切の権能を授かっている」(マタイ28・18)と言われる御方です。その御方の支配下に移されたのです。
確かに、悪魔は今も猛威を振るっています。私たちの生活にも影響を及ぼします。しかし、キリストのもとにある限り最終的には勝利が定まっているのです。滅びることはないのです。悪魔は私たちの持ち物を攻撃することができるかもしれません。あるいは私たちの肉体を攻めることができるかもしれません。しかし、私たちを最終的に神の愛から引き離し、滅ぼすことはできないのです(ローマ8:38‐39)。
神様は、御子による贖いによって、罪の赦しによって、このことをなしてくださいました。ここに救いの根拠があります。14節に書かれている通りです。神はサタンの下にあって罪を犯してきた私たちを裁いて滅ぼしてしまうのではなく、キリストの十字架のゆえに罪を赦してくださり、キリストの支配のもとに移し、キリストの下で新たに生きる者としてくださったのです。
そのような恵みに与った私たちは何を切に求めるべきなのか。それを示しているのが9節から12節に記されているパウロの祈りです。この祈りの言葉において多くの事が祈られているように見えますが、実は、中心となる動詞は一つしかありません。それは「神の御心を十分に悟り」と訳されている言葉です。これこそが第一に求められているのです。
コロサイの人たちも私たちも、もともと神の御心に無頓着な生活をしていたのです。造られたものが造り主の目的とは外れたところで、自分の欲するままに生きていたのです。それこそがまさに闇の力のもとにあることの現われでした。私たちを造られ、私たちを愛しておられる御方の御心を知らないことは不幸なことです。しかし、神はそのような私たちをキリストの支配のもとに移してくださいました。そうして神との交わりの中に生きる者とされたのです。ならば、私たちがまず求めるべきことは、神の御心を知ることです。
神の御心が知られるのは、「“霊”によるあらゆる知恵と理解によって」であると書かれています。人間の知性や理性の働きによるのではないのです。あくまでも聖霊の働きによるのです。ですから、そのためにはどうしたらよいのでしょうか。パウロがしているように祈り求めなくてはならないのです。
では御心を知るのは何のためでしょうか。10節に書いてありますように、すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩むためです。「歩む」という言葉は生活を意味します。つまり、特殊な宗教的な場においてではなくて、日常の生活においてということです。そこで主に喜ばれることを求め、主に従って生活するのです。「主に従って」とは、直訳すると「主にふさわしく」という言葉です。主に喜ばれるように主にふさわしく生活するということです。それでは「主にふさわしく生活する」とはどういうことでしょうか。ここに3つのことが挙げられています。
第一に、「あらゆる善い業を行なって実を結び、神をますます深く知る」ということです。善い業とは神の御心にかなった業のことです。大切なことは、御心を行なって神の御業としての実が結ばれるのを見せていただき、ますます神様深く知るようになることです。善い行いとして、外側の行為としては同じであっても、それによって自分に栄光を帰し、神にではなく自分に思いが向けられていくならば、「主にふさわしく生活する」ことにはならないのです。
そして、第二に、「神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、どんなことも根気強く耐え忍ぶように」ということです。ここでパウロは平穏無事な生活を求めてはおりません。なぜならキリスト者の生活は、キリストの支配の内に置かれたと言っても、やはり戦いだからです。人との戦いではありません。なお私たちに影響を与えようとする闇の力との戦いです。そのためには力が必要なのです。耐え忍ぶ力が必要です。「耐える」と訳されている言葉は艱難に対して持ちこたえることを意味します。「忍ぶ」と訳されている言葉は人の悪意や迫害に対して愛をもって受け止めることを意味します。そのためには力が必要です。主によって強められ、戦いの中にあっても安きに逃げずに、耐えかつ忍ぶことこそ、主にふさわしい生活なのです。
そして最後は、「御父に感謝するように」ということです。父は闇の力から救い出し、キリストの支配に移してくださいました。それは、最終的には私たちが滅びることなく永遠の御国を嗣ぐためです。御父はすでにそのようにしてくださったのです。ならば、私たちがどんな時にも、どんな状態にあっても、その御父に感謝し、誉め讃えて生きることは当然のことです。救いの感謝を忘れぬこと、これこそ主にふさわしい生活です。
パウロは以上のようなことをコロサイの信徒たちのために絶えず神様に願い求めていました。神の御心を知り、主に喜ばれるように主にふさわしく生きられるようにと、求め続けたのです。この祈りが書き記されているのは、私たちもまた同じことを求めるようになるためです。
2021年11月24日水曜日
祈祷会用:コロサイの信徒への手紙 1:9~14
Labels:
コロサイの信徒への手紙,
使徒言行録