2021年10月17日日曜日

「主を待ち望んで生きる」 

 マタイによる福音書 25:1‐13

賢いおとめたちと愚かなおとめたち
 今日はイエス様のたとえ話をお読みしました。そこに「十人のおとめ」が出て来ます。その十人が半々に分かれます。「そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった」(2節)と語られているのです。今日の話は愚かな人と賢い人の話です。

 譬えとして用いられている題材は「結婚式」です。私たちが知っている結婚式とかなり勝手が違います。まず花婿が花嫁の家に来て前祝いをし、続いて花婿は花嫁を自分の家に連れていき、そこで本格的な祝宴が行われたようです。そのような結婚式を行うためには多くの人々の助けが必要でしょう。そのため、婚宴に招かれている人々が様々な役割を担うことになります。

 例えば花婿が花嫁の家に到着する時に、迎えに出るという役割があります。時として町外れにまで出て花婿を迎えなくてはなりません。花婿が遅くなることもあったようで、夜中になることもめずらしくはなかったと言われます。その時にはランプに火をともして待つのです。その役割を託されたのが、この「十人のおとめ」でした。

 この十人が賢い五人と愚かな五人に分かれました。片方はともし火と共に油の用意をしていました。もう片方はともし火は持っていたけれど、油の用意はしていませんでした。前者は「賢いおとめたち」と呼ばれ、後者は「愚かなおとめたち」と呼ばれています。聖書が何を「賢い」と呼び、何を「愚か」と呼んでいるかは明らかです。先のことまで考えて備えている人を聖書は「賢い人」と呼び、目先のことしか考えていない人を「愚かな人」と呼ぶのです。

 片方は花婿を迎えて婚宴の席に着くまでのことを考えていました。花婿は遅くなるかもしれません。しかし、到着がいつになろうが、たとえ夜中になろうが、ともかく待って迎えるつもりでいたのです。そのために、ともし火だけでなく、一緒に油も備えました。そのように、先のことまで、終わりのところまでを視野に入れて考えている。それが賢い人です。

 一方、もう片方のおとめたちはその時のことしか考えていませんでした。同じようにともし火を持って出ました。しかし、それは夜だからであり、暗かったからです。「今」必要だから持って出ただけの話です。しかし、待って迎えてお連れして婚宴に至るところまでは考えていませんでした。ですから油は用意してはいないのです。そのように目先のことしか考えていない。それが愚かな人です。

 賢い五人も愚かな五人も外から見たら何も変わらないに違いありません。先のことまで考えて油を用意していようが、目先のことだけ考えてともし火を持って出ただけであろうが、ある時点までは大差ないのです。このたとえ話においてはあえて、「皆眠気がさして眠り込んでしまった」(5節)と書かれているのです。賢い人も愚かな人も眠り込んでしまった。そのように、途中まではこの両者はまったく区別つかない。そういうものです。

 しかし、途中においては大差ないとしても、結末では大きな違いが出てくるのです。イエス様のたとえ話においては、このように表現されています。「用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた」(10-12節)。

 そのように、このたとえ話は愚かな人と賢い人の話です。最終的にその違いがはっきり現れるという話です。その意味ではたいへん恐ろしい話でもあります。イエス様が語っておられる違いは、それこそ取り返しのつかない違いです。それは最終的な「救い」と「滅び」と言い換えてもよいでしょう。

祝宴に招かれている人として
 しかし、これを単に恐ろしい話として受け取るならば、イエス様のたとえ話を正しく聞いたことにはなりません。なぜなら、このたとえ話そのものは結婚式を題材としたものだからです。それが今日の日本であれ当時のユダヤであれ共通して言えることは、結婚式には「喜び」があるということです。そして、当時のユダヤにおいては、私たちが考える以上に、それは大きな喜びなのです。それは一般的に一週間も祝いが続けられたということにも現れています。

 普段は苦しく辛い生活があるかもしれません。しかし、その時はとにかく大いに喜び楽しむのです。ですから、イエス様が「十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く」と語り出した時、これを聞いた人々がまず心に思い浮かべたのは、その後に行われる喜びに溢れた祝宴であり、喜びに輝く人々の笑顔であったはずなのです。

 そもそもイエス様はなぜこのたとえ話をされたのでしょう。その前の章から読みますと、イエス様は世の終わりの話をしていたのです。弟子たちがイエス様に尋ねたのです。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか」(24:3)。そのような流れの中で、この「結婚式」の話が語られているのです。

 確かに全ての物事には始まりがあり、終わりがあります。個々の人生にも始まりがあり、そして終わりがあります。聖書によれば、この世界にも始まりがあり、そして終わりがあるのです。しかし、人生の終わりにしても、世の終わりにしても、そのことについて考えることは一般的にとても恐ろしいことでしょう。しかし、イエス様は「終わり」について語るときに、「結婚式」の話をなさったのです。

 そして、ここに出てくる十人のおとめは皆、基本的には婚宴に招かれている人たちなのです。そして、彼らはまさにその喜びの場へと招待してくれた花婿を迎えに出ようとしている人々なのです。そのようなおとめたちが題材とされているのです。そして、「このおとめたちこそ、このたとえ話を聞いているあなたがたのことだ」と語られているのでしょう。これは私たちの話なのです。そのように最終的な大きな喜びへと招かれている私たちとして、このたとえ話を聞いているのです。

 全てには終わりがあります。終わりは必ず訪れます。ならば、人生の終わりにせよ、世の終わりにせよ、これを悲しみや虚しさや恐怖としてしか語れないとするならば、それは実に不幸なことです。私たちは、そのような不幸な人として生きる必要はありません。イエス様は終わりを婚宴に喩えられたのです。私たちを、婚宴へと招かれている人として喩えてくださったのです。

 ならば私たちは、そのような喜びに満ちた終わりまでを視野に入れて生きたらよいのです。婚宴に招いてくださった花婿を迎え、その御方によって大きな喜びへと導き入れられるその時までを視野に入れて生きたら良いのです。結局、イエス様が語られた「賢いおとめたち」というのは、そのような人のことなのです。目先のことではなく、先のことまで考えている人。その先とは、最終的に花婿を迎えて花婿と共に婚宴の席に入り、大きな喜びにあずかるその時までを考えている人です。

 もちろん、それまでは待たなくてはなりません。待っている間は寒いかもしれないし、辛いかもしれない。そのように私たちの人生もまた、喜ばしいことばかりではありません。忍耐しなくてはならないことは山ほどあります。しかし、花婿と共に婚宴の席に入る時までを考えていたら、忍耐もできるし、そこで喜びも溢れてくるのでしょう。そのように喜びながら忍耐して、喜びに溢れて待つつもりでいる。待ち望んで生きている。それが「油を備えている」ということなのです。そのような「賢いおとめたち」として、私たちもまた生きたらいい。そのために、このたとえが私たちに語られているのです。

他ならぬ自分が生きる人生として
 そして、ここにはもう一つの大事なことが語られています。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言いました。「油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。」賢いおとめたちは答えます。「分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。」(8‐9節)

 これが分かち合いとか助け合いを教えるたとえ話なら、違う展開になっていたはずです。「彼らは油を分け合って、ともし火の数を減らし、一緒に花婿を迎えることができました」という話になるでしょう。しかし、主はそのようには語られませんでした。

 ここには、人生の厳粛な一面がはっきりと語られているのです。つまり、他の人に分けることができるものとできないものがあるということです。他の人に代われることと代われないことがある。そういうことです。その人がどのように生きてきたかということは、最終的には他の人と分かつことも、代わることもできないことなのです。大きな喜びへと向かっている人として「賢いおとめ」として生きたかそうでないかは、その人の人生なのであって、他の人は代わってあげられないのです。

 それはまた、周りの人の責任にできない厳粛さであるとも言えるでしょう。愚かなおとめたちは、「あの人たちが油を分けてくれなかったからです」と言って彼らのせいにすることはできなかったのです。私たちは、自分がどう生きたかということについて、周りの人々の責任にしたくなるものでしょう。「あの人のせいでこうなった。この人のせいでこうなった」と。「こんな私に誰がした」と。

 しかし、「彼らが油を分けてくれなかった」という言い訳が通用しなくなる時が来るのです。最終的に問われるのは、「他の人がどうであったか」ということではありません。あくまでも、「あなたはどうであったか。あなたはどう生きたか。賢いおとめとして生きましたか」ということが問われるのです。

 私たちは皆、祝宴へと招かれている人としてこのたとえ話を聞いています。そして、この言葉にどう応答するのか、ここから始まる日々をどう生きるのかは、他の人々に責任を問えない、私たち自身の問題です。今までがどうであれ、ここから私たちは喜びの祝宴に招かれている人として、やがて花婿を迎え、花婿と共に大きな喜びにあずかるはずの人として生きていこうではありませんか。

(祈り)

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