2021年10月20日水曜日

祈祷会用:フィリピの信徒への手紙 3:1~11

フィリピの信徒への手紙 3:1-11

 「あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい」(2節)。

 ここで「犬ども」と呼ばれているのはいったいどのような人たちでしょうか。「切り傷にすぎない割礼を持つ者たち」と書かれています。彼らは異邦人も割礼を受けてモーセの律法を守るべきであると教えていたユダヤ主義者たちでした。旧約聖書において、なるほど割礼は神との契約のしるしであり、神の民であることの見えるしるしです。そこに心惹かれるフィリピの異邦人キリスト者もいたのでしょう。それゆえにパウロは激しく警告を発するのです。「注意しなさい。気をつけなさい。警戒しなさい」と。三つの異なる言葉で訳されていますが、原文は同じ言葉です。「気をつけなさい!」何が問題なのでしょう。一言で言うならば、それは人間の「誇り」です。

 ここで警告を発するパウロも、一ユダヤ人として、自分自身について誇れるものをたくさん持っていました。5節以下に列挙されています。パウロは生まれて八日目に割礼を受けた人でした。すなわち、異教から改宗した者ではなく、生まれながらのユダヤ人だということです。そして、ベニヤミン族の出身です。イスラエル初代の王が出た部族の出身です。そして彼はタルソというヘレニズム世界の一都市で生まれ育ったにも関わらず、そのヘレニズム思想の影響を受けることなく、イスラエル古来の厳格な伝統の中で育ちました。そのことを彼は、「ヘブライ人の中のヘブライ人」と表現します。

 これらに加えて、パウロはパウロ自身が追求して得た誇りについて語ります。まず彼はファリサイ派に属しました。厳格に律法を守った一派です。そして、彼は実に熱心な宗教家でした。どれほど熱心であったか。キリストの教会を迫害するほどだったのだ、というのです。もちろん、教会を迫害したことをパウロは後悔していたはずです。しかし、それでも、あの迫害は神に逆らう思いでしたのではなくて、むしろ神について熱心であったからそうしたのだ、ということは否定しないのです。かつてはその熱心さもまた彼の誇りであったのです。そして最後にパウロはこのように言い切ります。「律法の義については非のうちどころのない者でした」と。

 なぜパウロはこんなことを言っているのでしょうか。それは、あのよこしまな教師たちが自分自身を誇っているからです。自分が割礼を受けていること、そして律法を守っていることを誇りにしているからです。その誇りに寄り頼んで生きているからです。「肉に頼る」とパウロが言っているのはそういうことです。そして、フィリピの人たちもそのような誇りを得たいと望み始めていたのです。肉に頼り始めていたのです。それゆえに、パウロはそのような自らの人間的な誇りについて語ってから、次のように断言するのです。「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています」(7‐8節)。

 パウロは既に述べた誇りに生きていたことを、まったく無駄なことであったと言うのです。いや、むしろ、そのように生きてきたことを損失であるとまで言うのです。なぜでしょう。それはパウロがキリストを知ったからです。これは「キリストについて知った」ということではありません。キリストを知ったのです。言い換えるなら、キリストによって救われたということです。人間が誇るべき何かによって救われたのではありません。キリストにおいて現された神の恵みによって救われたのです。

 その時、もはや今までより頼んでいた人間的な誇りはいっさい無用になったのです。生きることの根拠が変わってしまったからです。生きることの根拠は人間的な誇りにあるのではなく、神の圧倒的な恵みにあることを知ったからです。それゆえに、どんなに誇るべきものがあったとしても、それが神の恵みを知ることを妨げるならば、それは損失でしかないのです。

 フィリピの人たちは、その恵みを知っている人たちであるはずでした。その彼らに今、肉に寄り頼んで生きることへの誘惑が臨んでいるのです。だから「気をつけなさい」とパウロは言うのです。私たちも気をつけなくてはなりません。私たちが真に頼るべきは永遠に変わることのない神の愛であり神の救いの恵みなのです。

 そして、生きることの根拠が変えられるということは、生きる目標もまた変わることを意味します。パウロはこのように言うのです。「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」(11節)。

 日本語訳にしますと分かりにくいのですが、10節の前半は知るべき三つのことに言及しているのです。一つは「キリストを知る」ということです。原文では「彼を知る」という言葉です。二つ目が「その復活の力を知る」ということです。そして、三つめが「その苦しみにあずかることを知る」ということです。これは「その苦しみにあずかって」と訳されています。なぜこんな細々としたことを一々ここで申すかと言いますと、実はこの三つがひとつのこととして語られているところに大きな意味があるからです。すなわち、キリストを知ることは、キリストの復活の力を知ることであり、キリストの苦しみに共にあずかることを知ることなのです。これらは切り離すことが出来ないのです。

 ではキリストの苦しみに共にあずかるとはどういうことでしょうか。キリストは自らの罪の結果を刈り取って苦しまれたのではありません。キリストが苦しまれたのは一重に神に従い、人を愛するためでした。キリストは神の御心を実現するために苦しまれたのです。そしてキリストは人を愛し、人を救うために苦しまれたのです。この苦しみを共有することがここで言われていることの内容です。私たちがもし神に従い、人を愛して生きようとするならば、必ず苦しみをも負うことになるのです。そして、それはキリストと苦しみを共にすることに他ならないのです。

 そして、パウロは苦しみを共にすることのみを語っているのではなく、「復活の力を知る」ことについても語るのです。復活の力とはなんでしょうか。それはキリストを復活させた神の力です。その力を私たちが知るのだというのです。同じ力が私たちの内にも働くのです。漫然と自分のためだけに生き、苦しみを回避する道ばかりを選び取ろうとしている人が、神の力のリアリティを経験できないとしても、それは当然のことなのです。キリストと苦難を共にするときに、人は復活の力を経験するのです。

 そして、地上において経験する復活の力は、私たち自身の復活の希望をもたらします。私たちはこの地上でキリストと共に苦しんで、それで終わりではないのです。死は命への門となるのです。パウロは苦しみを共有することについて語り、「死の姿にあやかる」ということで話を終えません。その後にこのように言っています。「何とかして死者の中からの復活に達したいのです」と。すなわち、パウロには死の向こうに目を注いでいるのです。

(祈り)

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