2021年12月5日日曜日

「神の言葉を聞いて生きるために」

 マルコによる福音書 7:1‐13

心は神から遠く離れている
 ファリサイ派の人たちがイエス様に尋ねました。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」(5節)。実際、イエス様の弟子たちは手を洗わないで食事をしていたのです。それに対して、「不衛生じゃないか」と言っているのではありません。「なぜ、あなたの弟子たちは、手を洗うという宗教儀式を行わないで食事をしているのか。どうして昔の人の言い伝えに従って生活しないのか」と言っているのです。

 彼らが守ってきた「昔の人の言い伝え」は、ずいぶんたくさんあったようです。ここに実例が出ています。「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある」(3‐4節)。

 そのようにたくさんあった「昔の人の言い伝え」は、もともと神の御心に従って生きたいという熱意から生まれてきたものでした。あるいは神の御心に反することはしたくないという聖なる畏れから生まれてきたものでした。彼らは神を愛し従うということを観念的なこととはせずに、具体的な生活において実践しようとしたのです。そのために、モーセの律法の言葉を解釈し、現実の生活に適用したのです。あるいはうっかり御心に反することをしてしまわないように、いわば垣根を巡らすように様々な細かい規定を定めたのです。そのように、「昔の人の言い伝え」は、もともとは良い意図から定められてきたものでありますし、神を愛する心によって伝えられてきたものなのです。

 しかし、あることが定められ、皆によって行われるようになってしばらく経ちますと、その定めそのものが一人歩きを始めるようになります。ただ「定められたことを守る」ということが重要になり、もともとの心が抜け落ちて形だけが残るということも起こってまいります。ファリサイ派の人たちは、ある意味では極めて真面目な人たちでした。行うことになっていることはきちんと行う。定められていることはきちんと守るのです。しかし、そこには心がない。神に向けられた心がない。その事実をイエス様は見抜いておられたのです。

 それゆえにイエス様は非常に厳しい言葉をもって彼らの現実を指摘されたのです。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。』あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」(6‐8節)。

 「その心はわたしから遠く離れている」。どんなに敬虔な行為であっても、「定められているから守る」というだけでは意味がないのです。何かを行うとするならば、大事なのは心なのです。神に向けられた心なのです。

 何かを行う時に、心がそこにないならば、今日の聖書箇所のようなことが起こります。神に向けられた、神を愛する心から行うのではなく、「定められているから守る」ということをしていますと、守っていない人、きちんと行っていない人に対して批判的になります。そして、人を非難したり批判したりすることに一生懸命になっていると、実は一番重大なこと、その心が神から遠く離れていることに気付かなくなってしまうのです。

 今日の聖書箇所に登場してきた人たちは、「エルサレムから来て、イエスのもとに集まった」と書かれています。エルサレムからイエス様のいるゲネサレトまで、百キロちかくはあります。そんな遠くからわざわざやってきたのです。イエスとその弟子たちのあら探しをし、批判するためにやってきたのです。これが初めてではありません。既に3章において、エルサレムからやってきた律法学者たちがイエス様を批判し、論争をしています。

 イエス様の周りには豊かな神の恵みが目に見える形で現れていたのでしょう。イエス様とその弟子たちを通して、神がなさっている素晴らしいことがあるのでしょう。しかし、そこには目が行かない。彼らは「洗わない手で食事をする」という弟子たちのあらを目ざとく見出します。口にするのは、「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」という言葉です。「自分たちは昔の人の言い伝えに従って歩んでいる」という自負があるからです。

 そのような彼らに主は言われました。「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」(8節)。そして更に、イエス様はこう言われました。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである」(9節)。ここで「神の掟」と「人間の言い伝え」また「自分の言い伝え」が対比されています。「神の掟」という時に、大事なのは「神の」という部分なのでしょう。その心が神から遠く離れているならば、神に心が向けられていないなら、どんなに細かい定めを真面目に守っていたとしても、どんなに一生懸命なすべきことを守っていたとしても、それは所詮「人間の言い伝え」を守っているに過ぎないのです。

神の言葉を無にしない
 さて、先週から教会の暦においてはアドベント(待降節)という季節に入りました。クリスマスに向かうこの期間は、私たち自身を振り返る時です。さて、私たちはどうでしょう。心はどこにありますでしょうか。神から遠く離れていないでしょうか。

 御子は人となってこの世界に来られました。私たちは今年もクリスマスにおいて、この世界にキリストが来られたことを祝おうとしています。その御方によって、私たちは罪を赦されて、義とされて、神との交わりの中に入れていただきました。神を天の父と呼んで、神を仰いで、神の子どもたちとして共に生きる生活を与えていただきました。にもかかわらず、私たちの心が神から遠く離れているならば、それはまことに悲しむべきことです。

 そこで私たちが特に心に留めなくてはならないのは、ファリサイ派の人々と律法学者たちに主が言われたこの言葉です。「こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている」(13節)。それが彼らの問題だったのです。ならば重要なことは「神の言葉を無にしない」ということなのでしょう。

 しかし、「神の言葉を無にしない」とはどういうことでしょう。ユダヤ人の世界において、「神の言葉」と言ったら、それはまず「聖書」だったのです。そして、ある意味で彼らは聖書を無にしてはいないのです。そこにいたのは律法学者たちです。律法の専門家です。聖書の専門家なのです。「受け継いだ言い伝え」も、それはつまるところ聖書の言葉の解釈です。彼らは聖書を重んじています。粗末になんかしていません。しかし、イエス様は彼らが「神の言葉を無にしている」と言われるのです。どうしてでしょう。

 主は実例を挙げて説明しています。「モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と」(10‐12節)。これが実例です。「神の言葉を無にしている」実例です。

 「コルバン」というのは「供え物」を表わすヘブライ語です。「コルバン」すなわち「供え物」についての律法は、旧約聖書のレビ記などに事細かに出ています。それによるならば、「コルバン(供え物)」は神に捧げた神聖な物なので、他の日常のことに使うことは出来ないのです。これが「コルバンの規定」です。彼らは確かにそれを守っているのです。先祖がしてきたように、イエス様の時代の人も守っているのです。

 しかし、そこでこういうことが起こっていたというのです。たとえば、子が親と仲たがいして、自分の持っているものを親の扶養のために使いたくないと思ったとします。そこで彼は言います。「私の持っているものはコルバン用なので、あなたのために用いることは出来ません」と親に言ったとする。するとそれは日常の用途に使えませんから、親を扶養するためにも使わなくてよいのです。

 その場合、確かに形の上ではコルバンの規定を守っています。しかし、そんなことを神様は望んでおられるのでしょうか。彼らは神様が望んでおられることを聖書から聞き取っていたのでしょうか。神様の心を聞き取っていたのでしょうか。明らかに神様はそのようなことを望んではおられない。彼らは聖書の言葉を自分に都合よく利用していたに過ぎません。

 言葉というものは心を伝えるものです。そして、相手の心は自分の心が共にある時に、初めて聞くことができるのです。心がそこにないならば、相手の心は聞けません。神の心も同じです。神の心を聞いていなければ、神の言葉を聞いたことにはならないのです。

 私たちの心が特に問題になるのは、聖書に向かう時であり、聖書の言葉を耳にする時です。心はどこにありますか。今こうしている時、心はどこにありますか。「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている」と、神はここにいる私たちにも言われるでしょうか。

 アドベントの第二週に入りました。私たちはこの期間を通して、私たちの心があるべきところに立ち帰らせていただきましょう。神の言葉を無にしてはなりません。本当の意味で神の言葉を聞いて生きる生活をひたすら求めてまいりましょう。

(祈り)

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