2021年12月8日水曜日

祈祷会用:コロサイの信徒への手紙 1:21~23

 コロサイの信徒への手紙 1:21-23

 私たちは主の日に礼拝をささげるために集まります。こうして祈祷会にも集まって祈ります。そのように私たちは神に祈りながら生活しています。しかし、そのような生活はこの国においては一般的ではないことを知っています。日曜日に教会に集まる人は、この国においては圧倒的に少数です。ですから、ともすると私たちは何か特別なことをしているかのように思ってしまいます。しかし、聖書の見方は違います。私たちは何も特別なことをしているわけではありません。本来の姿に戻って、本来のしているはずのことをしているだけなのです。

 今日の聖書箇所にはこう書かれていました。「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました」(21節)。「あなたがた」とはコロサイのキリスト者です。特に異邦人キリスト者を念頭に置いて語っているのでしょう。彼らにとっての「以前は」は、もちろんキリスト者となる以前です。キリスト者となる以前、彼らは神とは無関係に生きていたことでしょう。実際、この国においても多くの人は自分は神とは関係ないと思って生きていると思います。なので、キリスト者の中にも、信仰を持っていない人に神は無関係であると思っている人もいなくはありません。

 しかし、本当に無関係なのでしょうか。パウロは「「あなたがたは、以前は神から離れ」ていたと語るのです。本来、無関係であるならば、「離れていた」ことが語られることに意味はありません。「神から離れていた」と語られているのは、人間が本来神と無関係ではないからです。すべての人間が本来神と共にあるべき存在だからです。しかし、離れてしまっていた。いやそれだけではありません。「心の中で敵対していた」というのです。これが聖書の見方です。神と関係なく生きているそのことこそが、まさに心における神への敵対であり、そこにあるのは「悪い行い」なのだというのです。

 「あなたがたは、以前は神から離れ・・」。遠ざけていたのは神の方ではありません。人間が、その行いによって、そして、その心において、神を遠ざけていたのです。イエス様はそんな私たちの姿を、父のもとから去って行った放蕩息子に喩えました。そこにある最大の悪は何であるのか。あの息子が放蕩に身を持ち崩したことではないのです。父のもとから離れることを願い求めたこと、そして実際に無関係に生活したことなのです。

 しかし、そのように神から離れていた私たちに対して、神がしてくださったことを聖書は次のように語っています。「しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました」(22節)。

 まず書かれているのは、神が和解してくださったということです。背いている者と和解してくださったというのですから、それは言い換えるならば「赦してくださった」ということです。しかし、そこにはただ「和解してくださった」「赦してくださった」ということだけが書かれているのではありません。「御子の肉の体において、その死によって」と書かれているのです。

 「御子の肉の体において」とは、御子が人となられたことを指しています。イエス・キリストという御方の話です。「その死によって」とは、そのイエス・キリストが十字架にかかって死んでくださったということです。そのことによって、そのことのゆえに、神は「赦してくださった」というのです。

 赦していただくとするならば、本来は赦していただく方が犠牲を払うのでしょう。これだけのことをしますから。これだけの苦しみを負いますから。だから赦してください、と。そして、償いきれなければ、赦しを求めることはできなくなるのでしょう。しかし、神は人間の側に償いの犠牲を求めることはなさらなかったのです。ただ「御子の肉の体において、その死によって和解してくださった」というのです。和解のために受けるべき杯は、私たちではなく、イエス様が苦しんで受けてくださったのです。

 そして、「御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました」と続きます。「してくださいました」と訳されていますが、原文では「立たせてくださいました」という言葉が使われています。「聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者として、御自分の前に立たせてくださった」と書かれているのです。

 私たちは現在においては「きずのない者」でも「とがめるところのない者」でもないことをよく知っています。「聖なる者」が私たちの完全であることを意味するならば、とても自分についてそのように語ることはできないでしょう。私たちは神から離れ、神に背いて生きていたというだけでなく、神から離れ、神に背いてきた私たちの罪は私たちの現在の生活の深いところにまで及んでいるのです。神に立ち帰った今もなお、肉においてそこに宿る罪との戦いは続いているのです。

 しかし、そのような私たちを、神は「聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者」として御自分の前に立たせてくださったのです。神はそのような者として私たちを見ていてくださる。それは私たちが何をしたかではなく、ただ「御子の肉の体において、その死によって」なのです。それが「和解してくださった」「赦してくださった」ということです。だからこそ、私たちは神の御前において礼拝をささげているのです。だからこそ、私たちははばかることなく神に近づいて祈ることができるのです。

 そして、そこにこそ私たちの希望があるのです。神が今、「聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者」として御自分の前に立たせてくださったのならば、やがて神がそのような者としてくださるからです。神の始められた救いは必ず完成するからです。そのような者として立たせてくださったのなら、終わりの日には、文字通り、「聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者」として立つことになるのです。

 それゆえに、このように勧められています。「ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません」(23節)。必要なことは多くはありません。信仰に踏みとどまり、希望から離れないことです。

 ここで「揺るぐことなく踏みとどまる」と訳されているのは、「土台の上にしっかりと立ち続ける」という意味の言葉です。既に述べてきたように、すべてはキリストによるのです。信仰の土台はキリストです。その土台の上に立ち続け、キリストを信じる信仰に踏みとどまるのです。そして、すべての希望はキリストによるのです。
(祈り)

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