2021年9月12日日曜日

「分け隔てをしてはなりません」

ヤコブの手紙 2:1-13

分け隔てをしてはなりません
 今日の箇所では、「わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません」(1節)と語られています。それが人道的に良くないことだから「人を分け隔てしてはなりません」と言っているのではありません。主イエス・キリストを信じる信仰と「分け隔て」とは本来相容れないものであるからです。それゆえに、「《わたしたちの主イエス・キリストを信じながら》、人を分け隔てしてはなりません」と言っているのです。

 そして次のような一例が挙げられています。「あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、『あなたは、こちらの席にお掛けください』と言い、貧しい人には、『あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい』と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか」(2‐4節)。

 いかにもえげつない話です。世の人が聞いたなら、「信仰云々の前に人としてどうなのか」と言われるかもしれません。しかし、ここに書かれているのは、単にこの世の差別意識が教会にも持ち込まれたという単純な話ではないのです。このようなことは、教会生活を大事にし、教会のことを真剣に考える敬虔な人々であるからこそ、起こっていたのかも知れないのです。

 そもそも、初期の教会で「立派な身なりの人」が優遇されていたとするならば、それはそのような人の存在が教会にとって有利であったからです。実際には貧しい人が多く、奴隷の身分の人も決して少なくはなかった初期の教会の話です。聖餐のパンや食事も、主に共同体の中の比較的裕福な人々が用意したのです。集会の場所もある程度広い場所が確保できる裕福な人たちが提供していたのです。

 そればかりではありません。迫害もあれば、様々な形での妨害もあります。6節以下に書かれているように、この世の富裕層から酷い目に遭わされたり、脅かされたりすることが実際にあったのでしょう。そのような時、教会の中にある程度力を持った人間がいること、富裕層の人たちがいることは実際的に大きな助けとなったことが考えられるのです。

 ですから、ヤコブがここで挙げている一例は、先にも申しましたように、実際には不敬虔でいかにもこの世的な人々によって起こるだけでなく、一見すると敬虔で信仰的で教会をとても大切にしている人々によっても起こるのです。教会を大切に思う人が、教会を守りたい一心で、ある人の存在を教会にとって有利か否か、役に立つか否かという判断をしてしまう。そして、それが結果的に「分け隔て」や「差別」を生み出してしまうということが起こるのです。

 ですから、それはこの例のような金銭的な富だけでなく、能力や年齢、性別などによっても起こり得ます。例えば、日本の多くの教会において、「若い人がもっと教会に来て欲しい」と言う声が聞かれます。それは純粋に若い人たちを愛して、若い人たちに福音を伝えたいという願いから出た言葉であるかもしれません。しかし、同じ言葉であっても、「日本の教会は高齢化しているから、もっと若い人たちに来て欲しい」という意味であったらどうでしょう。教会を維持するために必要だというだけならば、今日の聖書箇所に書かれている事例と内容的には少しも変わりません。それは「お金持ちがもっと教会に来て欲しい」と言うのと変わらないでしょう。そのように、今日の聖書箇所のようなあからさまな形でなくて、時として非常に見えにくい形で、分け隔てや差別は起こってくるのです。

 そして、さらに言うならば、そのような分け隔ては「他者」に対して行われるだけではありません。「自分」に対しても起こり得ます。他の人について「あの人は必要、あの人は必要ではない」というだけでなく、自分についても「わたしは必要な人」と考え、あるいは「わたしは必要ない人」と考える。しかし、それは他者を見る目がそのまま自分に向けられているだけなのです。自分は貧しいからいてもいなくてもいい人。自分は能力がないから必要ない人。そのように、自分は~だから必要のない人と思っている人は、まず自分が他の人をどう見て、どう判断しているかを省みてみる必要があろのです。

目を向けるべきところに向けて
 そこで私たちは特に、4節の御言葉を心に留めたいと思います。「あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか」(4節)。

 ここで「誤った考え」とあるのは原文では「悪い考え」という言葉です。確かに差別は悪いことです。それは「悪い考えに基づく判断だ」と言うことができるでしょう。しかし、ここでヤコブが言っているのは、そのようなことではありません。冒頭で触れたように、要するにそれは信仰とは相容れないということなのです。あくまでも問題は信仰に関わることなのです。信仰によって本当に見るべきところに目を向けているか、信仰によって価値あるものを価値あるものとして見ているかどうか、ということなのです。そうなっていない時に起こってくる考えとそれに基づく判断。それが「悪い考えに基づいて判断を下した」と書かれている内容なのです。

 ですから「よく聞きなさい」と言って、ヤコブは見るべきところに目を向けさせようとします。「神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか」(5節)。彼はどこに目を向けていますか。肉の目が見ているのは、教会の中にいる貧しい一人の信徒です。しかし、ヤコブが指し示しているのは、神が信仰に富ませてくださったという事実です。そうです、既にこの上なく豊かなのです。

 神が信仰に富ませてくださった。その「信仰」とは、1節にあるように「栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じる信仰」です。すなわちイエス・キリストによって実現したことに心を向ける信仰です。それは、キリストの十字架のゆえに罪の赦しにあずかったこと、神に受け入れられ神の子供たちとされ、そこに書かれているように「御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者」とされたということです。

 そのように、神が既にしてくださった偉大なことがあるのです。神が既にしてくださった偉大なことに、私たちが等しく与っているという事実があるのです。そのようなお互いであることに目を向けないから、他のことに目が行くのです。この世的な違いに目が行くのです。自分たちにとって有利か不利か、役に立つか立たないかというところにばかり目がいくのです。そして結果的には神がしてくださった大いなることを踏みにじることになるのです。例えばここに書かれているように「貧しい人を辱めた」という形で起こってくるのです。

憐れみは裁きに打ち勝つ
 さて、このように今日の聖書箇所においては「人を分け隔てしてはなりません」という勧めがなされていたのですが、最後に、この部分が次のように締めくくられていることに注目しておきたいと思います。次のように書かれています。「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです」(13節)。

 ここで「憐れみをかける」という話が出て来るのはいささか唐突な感じがしないでもありません。「人を分け隔てしない」ということと「憐れみをかける」ということは、基本的には別なことのように思います。また、そのように扱うことが正しいように思えます。というのも、「分け隔てをしない」ということが、イコール「憐れみをかける」ということになりますと、何か上から人を見て「分け隔てをしないであげよう」という意味合いにもなりかねませんから。

 しかし、今日の福音書朗読において読まれたイエス様のたとえ話に耳を傾ける時、「憐れみをかける」という言葉は全く違った意味合いをもって響いてまいります。そこで語られていたのは、王によって一万タラントンの借金を帳消しにされた家来の話でした。借金を帳消しにされた家来が外に出ると、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会います。百デナリオンは一万タラントンの六十万分の一です。自分は六十万倍もの借金を帳消しにしてもらったにもかかわらず、彼はその仲間の首を絞めて「借金を返せ」と言い、借金を返すまでと牢に入れた」というのです。

 それを聞いた王は怒りました。そして、こう言ったのです。「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」(マタイ18:32‐33)。

 この王とは神であり家来は私たちです。「憐れんでやるべきではなかったか」と神は言われます。その根拠は神の「憐れみ」です。「わたしがお前を憐れんでやったように」と神は言われるのです。ですから、要するに「憐れみをかける」とは、神がしてくださったことに目を向けて、神がしてくださったことに基づいて判断し、行動することなのです。

 「分け隔てをしない」ということは、まさにそのようなことではありませんか。神様がしてくださったことに基づいて判断し、行動するならば、分け隔ては起こらないはずなのです。そうでない判断は「悪い考えに基づく判断」と呼ばれていました。ちなみに4節で「判断を下した」と訳されているのは「裁く者となった」という言葉です。悪い考えに基づく裁き、すなわち神がしてくださったことを思わない「裁き」、それが「憐れみをかけない」ということです。「憐れみをかけない」ならば、「憐れみのない裁きが下されます」と語られているのです。

 私たちに対する神の憐れみがなかったかのように私たちが他者を裁くなら、そのように私たちも神に裁かれることになるでしょう。自分が裁く裁きで裁かれるのです。逆に神の憐れみが先にあることを思いつつ、それに基づいて裁く(すなわち「判断する」)なら、そのように神もまた憐れみに基づいて裁いてくださるのです。私たちにおいて「憐れみが裁きに打ち勝つ」なら、神においても「憐れみが裁きに打ち勝つ」のです。そうです、その時には憐れみの方が裁きよりも遙かに大きいのです。

(祈り)

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