テサロニケの信徒への手紙二 3:6-13
怠惰な生活をしている人
「働かざるもの食うべからず」という言葉があります。その言葉の出所は本日の第2朗読で読まれた聖書箇所だと言われています。今日はテサロニケの教会に宛てたパウロの手紙が読まれました。
「働かざるもの食うべからず」という言葉は、場合によってはとても残酷な言葉となります。いつの時代でも、働きたくても仕事のない人、あるいは働きたくても病気で働けない人はいるものですから。しかし、新共同訳に見るように原文では「働きたくない者は」(10節)となっているのであって、働きたくても様々な事情で働けない人には当てはまりません。
しかし、この箇所において重要なことは、そもそもパウロは労働そのものを話題にしているわけではない、ということです。もう一度その前後を含めてお読みします。「実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、『働きたくない者は、食べてはならない』と命じていました。ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです」(10‐11節)。
パウロはここで「怠惰な生活をしている者」を問題にしているのですが、ここで言われている「怠惰な生活」とは何もしないでぶらぶらしていることではありません。確かに「少しも働かず」と書かれていますように通常の労働はしていません。しかし、パウロに言わせれば「余計なこと」はしているのです。これは「お節介」とも訳せる言葉です。そのように余計なお節介をしている本人は、それなりに忙しくしているのです。そのようにここに書かれている「怠惰な生活」というものは、私たちが一般的に考えるような「怠惰な生活」とは異なるのです。
それが何を意味するかは2章まで遡るとわかります。このようなことが書かれていました。「霊や言葉によって、あるいは、わたしたちから書き送られたという手紙によって、主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい」(2:2)。このようなことを書かざるを得なかったのは、実際には動揺したり慌てふためいたりする人たちがいたからです。
「主の日」とは最終的な神の裁きの日です。すなわち、最終的な神の裁きは始まっているということです。これを聞いて、動揺したり慌てふためいたりする者がいたのです。あるいは「既に来てしまった」とまでは言わなくても、いつ再臨があるかは分からないのだからという危機感から、例えば仕事を辞めてしまったり、通常の日常生活を放棄する者が現れたのです。そして、ただひたすら信仰に関わることだけに専念しようと思ったのです。それこそ伝道のために日夜かけずりまわる人がいたことでしょう。あるいは世の生活から離れてひたすら祈りに専念する人がいたことでしょう。教会の奉仕のために身を粉にして働いている人もいたかもしれません。
ですから、この「怠惰な生活」をしている人とは、何もしないで怠けている人というよりは、むしろ見ようによっては極めて熱心な信仰者にさえ見える人々なのです。しかし、それにもかかわらず、パウロは彼らのしていることについて、「余計なことをしている」と言うのです。余計なお節介であると。そして、そのような人たちに命じるのです。「自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい」(12節)。危機感によって動かされないで、慌てふためいたりしないで、とにかく落ち着いて普通の生活を続けなさいと命じているのです。
危機意識に動かされることの危険
しかし、ここでどうしても考えざるを得ないことがあります。そう言っているパウロはどうなのでしょう。パウロは普通のユダヤ人としての日常生活を放棄した人ではなかったでしょうか。彼もまたファリサイ派の生活を捨てて、伝道のために旅を続けているわけでしょう。確かに彼はテント職人を続けながら伝道の旅をしていました。テサロニケにいた時もそうでした。彼がここに書いているとおりです。「だれからもパンをただでもらって食べたりはしませんでした。むしろ、だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けたのです」(8節)。そうです、そのとおりです。しかし、それでも反論したくなります。パウロよ、いつもそうであったわけではないでしょう、と。
実際、パウロはコリントに着いた当初はテント造りをしながら伝道していたのですが、「シラスとテモテがマケドニア州からやって来ると、パウロは御言葉を語ることに専念した」(使徒18:5)と書かれているのです。この手紙はその頃のコリントにおいて書かれたと考えられますので、実はこの手紙を書いている時点では、パウロは通常の労働はしていないのです。まさにそのように、生計を立てるための仕事から離れて走っているとしか見えないパウロが、「落ち着いて仕事をしなさい」と言っているのです。
そこで私たちは、改めてこれを書いているパウロと、ここで言われている「怠惰な人々」との違いをしっかりと見極めなくてはならないのだと思います。パウロが伝道のために奔走しているのはなぜでしょうか。それは終末の到来を考えたときに、この世の営みに意味を見いだせなくなったからとか、もはや伝道にしか意味が見出せなくなったから、という理由によるのではないのです。そうではなくて、パウロはキリストによって召され、キリストに命じられてそうしているのです。つまりそれは伝道者としての召命によるものなのであって、単に危機感によって動かされているのではないのです。
キリストが命じておられることであるか。キリストが本当に望んでおられることなのか。――そのことを考えずにただ危機感に駆られて行動することは、時にとても大きな危険をはらむことになります。「世の終わりが来る」という危機感。そのような終末的危機意識に煽られる時、容易に日常生活の放棄が起こります。いやただ仕事を放棄するだけでなく、歴史的に見るならば、そこには危険な殺人集団が生み出されることもあれば、集団自殺が引き起こされることもあったのです。「宗教は怖い」と言う人がいます。ある意味で当たっています。危機意識によって動かされた宗教的熱狂ほど怖いものはありません。そこで人は何をしでかすかわからないからです。
パウロはテサロニケにいたときから、終末的危機意識から来る熱心さ、しかも通常の生活を軽視した形での熱心さが大きな問題になるであろうことを既に予感していたのでしょう。ですから、パウロは援助を受けて伝道することもできたのですが、あえて通常の仕事をしながら伝道したのです。日常の当たり前の生活を大切にして見せたのです。それは「身をもって模範を示すため」(9節)だったと語られています。そして、言葉によっても、「働きたくない者は、食べてはならない」(10節)と教えたのです。
たとえ世界が明日終わるとしても
しかし、パウロはただ危機意識から来る熱狂を問題にしているだけではありません。そこには、もっと根の深い問題があったからです。そもそもギリシア人は、もともとこの世界における労働そのものに大きな価値を見てはいなかったのです。労働は奴隷の務めとさえ考えられていたのです。それは目に見えるこの世界を価値なきものと見る世界観から来ています。物質的なるものは悪であり、見えざる霊魂こそが善であるとする霊肉二元論です。容易に想像できるように、そのような思想は、この世の生活を非本質的なものと考える人々を生み出したのです。そのような人々にとってはむしろ死ぬことこそ救いなのでした。彼らにとって死とは魂の牢獄からの解放に他ならなかったのですから。
そのような人生観において宗教は現実逃避と容易に結びつくものとなります。宗教はいくらでも現実逃避の手段となるのです。そのような素地をもった人々が福音を受け入れたとき、キリスト教信仰もまた、日常生活の放棄や現実逃避と結びついていくことはいくらでも起こり得ることでした。パウロはそのことが分かっていたからこそ、あえてこの世における労働を強調して、自ら模範を示したのです。
それは今日の私たちもまた考えねばならない事柄です。宗教が現実逃避と結びつく要素は、この国の一般的な宗教観にも根強く存在するからです。この世から逃れることが救いだと考えている人は決して少なくない。ありきたりの日常から離れて、ひとときでも非日常的な世界に身を置くことのできる時間を宗教に求める人は少なくないのです。さらには、テサロニケの「怠惰な」人たちのように、この世から隔絶したところに完全に身を置くことを願う人もいる。そのようにして、人はカルト宗教に捕らえられていくのです。
しかし、聖書は全く逆のことを語っているのです。この目に見える世界は無価値などころか、この世界こそ神が造られた世界なのだと言うのです。エデンの園の物語を思い起こしてください。そこには何と書かれていますか。神は人を造って、園に住まわせ、「人がそこを耕し、守るようにされた」(創世記2:15)と書かれているのです。労働は本来、神からの委託であり、神からの賜物でもあるのです。いわば、この目に見える世界との関わりにおいて神との交わりを経験する契機でもあったのです。
この世界は神が造られた世界であるゆえに、神にとってこの上なく大事な世界なのです。どれほど大事かと言えば、独り子を目に見える体を与えてこの世界を歩ませるくらい大事なのです。また最終的にキリストをこの世界に再臨させると約束されたくらい大事なのです。それゆえに、この世に生きる私たちの人生も神にとっては重大事なのです。神は関心をもってご覧になっておられるのです。私たちがこの世に生きる、当たり前の日常生活、同じことの繰り返しかもしれない労働の生活、あるいは様々な苦難を耐え忍びながら神を信じて生きる生活、そのすべてが神様にとっては、大きな意味を持っているのです。
「たとえ世界が明日終わるとしても、今日私はリンゴの木を植える」。マルティン・ルターが言ったとされている有名な言葉です。これは信仰者にとって、決して忘れてはならない姿勢を語っているのでしょう。世の終末に限らず、危機は誰にでも訪れます。それは社会における危機かもしれません。現在のパンデミックもまたその一つでしょう。あるいは個人の人生における危機かもしれませんし、自身の終末を迎えるという時もまたその一つでしょう。
終末的危機感に限らず、危機的な状況がある時に正しい意味での危機感を持つことは大事です。しかし、危機感に支配され、危機感に駆り立てられて行動してはならないのです。そのような時こそ神に信頼して、落ち着いて、本当に為すべきことを見出さなくてはならないのです。自分が神から託されている務め、その時に本当にしなくてはならないことを見出し、忠実に行うことこそが大事なのです。それは、場合によっては、ごく当たり前の生活をそのまま落ち着いて継続することかもしれないのです。パウロが「落ち着いて仕事をしなさい」と言っているように。
(祈り)