イザヤ書 40:1‐11
草は枯れ、花はしぼむ
今日の旧約聖書の朗読では「草は枯れ、花はしぼむ」(7節)という言葉が読まれました。旧約の預言者の言葉です。彼が見つめているのは人間です。彼はそれを「肉なる者」と呼びます。「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの」(6節)と。その「草は枯れ、花はしぼむ」と言っているのです。私たちは人間の一生を思う時、確かにそうであると言わざるを得ません。草は枯れ、花はしぼみます。
しかし、この人は、ただ個々の人間の一生を思って語っているのではありません。彼はまた人間の営みによって成り立っている社会そのものをも見つめているのです。人間が積み上げてきたもの。人間が築き上げてきたもの。それもまた肉なるものです。それもまた「草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの」なのです。彼は実際に枯れてしまったユダの王国、枯れてしまった野の花であるイスラエルを見て語っているのです。
時は紀元前六世紀。バビロニアの軍事侵攻により、かつては繁栄を極めたユダの王国は崩壊しました。エルサレムの城壁は破壊され、彼らの心の拠り所であったエルサレムの神殿も焼き払われてしまいました。そして国の主だった人々は、異国の地バビロンへ捕らえ移されていきました。バビロン捕囚と呼ばれる出来事です。彼は崩壊したユダの国、捕囚となったイスラエルを思いつつ語るのです。「草は枯れ、花はしぼむ」と。
「栄枯盛衰は世の習い」と言います。栄える時があれば衰退する時もまたある。人間が築き上げていく時があり、その築き上げてきたものが崩壊する時がある。それは今日の社会においても身近に起こってきたことですし、私たち自身も多かれ少なかれ経験してきていることです。
しかし、この人は単に「栄枯盛衰は世の習い」と言いたいのではなさそうです。「草は枯れ、花はしぼむ」と言った後、彼はこう付け加えるのです。「主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい」(7節)。彼はそこに「主の風」を見たのです。
パレスチナの自然においては、東から熱風が吹きつける時、それまで華やかに咲き誇っていたアネモネやケシの花がまたたくまにしおれてしまい、一夜にして茶褐色の野山にもどってしまうと聞いたことがあります。その姿を思いながら、「主の風が吹き付けたのだ」と語る時、彼が思い描いているのは神の裁きに他なりません。言い換えるならば、人間の罪とその結果を思いながらこれを語っているのだということです。
私たちは往々にして表に現れていることにしか目がいかないものです。栄えたものが衰退する。築き上げてきたものが崩壊する。それを単純に「災い」とか「不幸」と呼んでしまう。しかし、この預言者は、ただ表に現れている枯れ草のような姿やしぼんだ花のようなありさまに目を向けて、「なんと不幸なことか」と嘆いているのではありません。そうではなく、さらに深いところ、それをもたらした本質的な問題、すなわち人間の罪に目を向けていたのです。神に背いているという現実、神に背き続けている現実を見ていたのです。そのような意味において、聖書は「草は枯れ、花はしぼむ」と語るのです。
それが預言者の見ていた世界であり、それが私たちの見ている世界です。そこで確かに人は、「草は枯れ、花はしぼむ」としか語れない。正しい神の裁きを思う時、罪深い現実と正直に向き合うならば「草は枯れ、花はしぼむ」としか語れないのです。しかし、「人」がもはやそこまでしか語り得ないところで、「神」が語られることがあるのです。人間の言葉が終わるところに、神の言葉はあるのです。それゆえに、預言者はもう一度「草は枯れ、花はしぼむ」と繰り返した後、こう続けるのです。「わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」。
とこしえに立つのは、永遠であるのは、人間が語る言葉ではなくて、神が語る言葉なのです。では、神は何を語られるのでしょう。「草は枯れ、花はしぼむ」としか言えない人間の現実に対して、何を語られるのでしょう。枯れ草としぼんだ花を目にしていた預言者が聞いたのはこのような言葉でした。「慰めよ、わたしの民を慰めよ」。1節の言葉です。
見よ、あなたたちの神
「慰めよ、わたしの民を慰めよとあなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ、苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と」(1節)。「慰める」とは、単に悲しみを和らげることではありません。これは励まし力づけることを意味します。励まし力づけるのは立ち上がらせるためです。希望のない者たちが希望を得、命のない枯れ草が再び生き返って立ち上がるためです。
神がそのことを望んでいてくださる。しかも、神は「《わたしの民を》慰めよ」と言ってくださったのです。神は御自分に背き続け、ついに枯れ草のようになった人々を、いまだに「わたしの民」と呼んでくださるのです。神は今もなお「あなたたちの神」だと言ってくださるのです。そのように神は憐れんでくださる。神は赦してくださる。だから「草は枯れ、花はしぼむ」で終わらないのです。
さらに天からの声はこう続きます。「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを、肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される」(3‐4節)。勝利を得た王が凱旋する時のように広い道を備えて通せと言われる。それは神が来てくださるからです。
ですから9節にはこう書かれているのです。「見よ、あなたたちの神」。何を意味しますか。神に背いて枯れてしまった枯れ草が、神に背いてしぼんでしまった花が、それでもなお「わたしの神、わたしたちの神」として神を見上げることができるということです。「見よ、あなたたちの神、見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い、主の働きの実りは御前を進む」(9‐10節)。
神が来られる。力を帯びて来られる。その力は滅ぼすための力ではありません。なぜなら、その神は「慰めよ、わたしの民を慰めよ」と言ってくださる神だからです。神は救うために来てくださるのです。そして、恵みをもって治めるために来てくださるのです。人はこの神と共に、再び生きることができるのです。
ならば、もはや朽ちていくだけの枯れ草ではありません。まったく異なる描写がそこにあります。「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる」(11節)。そこで人はもはや望みなき者として生きる必要はありません。人はもはや見捨てられた者のように生きる必要はありません。主に養われる羊の群れとして生きることが許されているのです。
このように、救いをもたらす神の支配の到来――これこそ、人間がもはや何も語り得ないところでなお神が語られることなのです。とこしえに立つ神の言葉がそこにあるのです。
力を帯びて来られた神
さて、本日の福音書朗読においては、マルコによる福音書の冒頭の言葉が読まれました。そこにはこう書かれていました。「神の子イエス・キリストの福音の初め。預言者イザヤの書にこう書いてある。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」』そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」(マルコ1:1‐4)。
ここで再び私たちはあの旧約の預言者が聞いた言葉を耳にすることになります。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」主の道を整えるのは何のため。神の支配が到来するためです。そのようにして来られた御方こそが、イエス・キリストに他ならないのです。
しかし、「彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される」と語られたあの言葉は本当に実現したのでしょうか。この世界が見たのは、およそこの世の力とはかけ離れた御方ではなかったでしょうか。その御方は、この世の権力によって十字架にかけられ殺されてしまったではありませんか。しかし、そのようなキリストにこそ、聖書は《力を帯びて来られた神》を見ているのです。その御方において確かに神の支配が到来したと語るのです。確かに神は統治するために来られた、と。
それは、この世の権力や武力の支配とは全く異なる支配です。それはある意味で当然のことでしょう。神の支配が人間の支配と同じであろうはずがありません。そもそも権力や武力は人の心まで支配することはできないのです。人は従順に振る舞いながら、後ろを向いて唾を吐くことができるのです。人の心まで、人格の最も深いところまで支配するのは、真の力によるのです。それは何か。愛の力です。神の愛の力です。
ナザレのイエスという一人の御方において、神は確かに力を帯びて来られたのです。そして、神の力、神の愛の力は、あの罪の贖いの十字架とキリストの復活において完全に現されたのです。そして、その御力をもって、主は統治されるのです。実際、私たちはこの世の権力によって強制されてここにいるのではないでしょう。私たちは確かに、主の愛の力によるご支配のゆえに、ここにいるのです。主の愛のご支配のゆえに、自らを献げ、仕えて生きようとしているのです。
私たちは主の風が吹き付けるならば滅びるしかないこの世界に生きています。私たちは、主の風が吹くならば滅びるしかない「肉なる者」に過ぎません。しかし、そこにおいてもはや「草は枯れ、花はしぼむ」としか語り得ない私たちに、神は永遠に揺らぐことのない救いの御言葉をもって、今日も私たちに呼びかけていてくださいます。「見よ、あなたたちの神」と。
(祈り)