イザヤ59:12‐20
光を望んだが闇に閉ざされ
今日の第一朗読はこのような言葉から始まっていました。「御前に、わたしたちの背きの罪は重く/わたしたち自身の罪が不利な証言をする。背きの罪はわたしたちと共にあり/わたしたちは自分の咎を知っている」(12節)。自らの罪を認め、罪を悔いる者の言葉です。
この人が置かれている状況を先に見ておきましょう。今日の朗読には含まれていませんが、9節以下には次のように書かれています。「それゆえ、正義はわたしたちを遠く離れ/恵みの業はわたしたちに追いつかない。わたしたちは光を望んだが、見よ、闇に閉ざされ/輝きを望んだが、暗黒の中を歩いている。盲人のように壁を手探りし/目をもたない人のように手探りする。真昼にも夕暮れ時のようにつまずき/死人のように暗闇に包まれる。」(9‐10節)。
これがこの人の置かれている状況です。彼が目にしている当時の社会の描写であると言ってもよいでしょう。誰もが光を望みながらも現実には闇に閉ざされている社会。暗闇の中を歩いているかのように、先が見えない。まるで手探りをして歩いているかのように、どちらに進んだらよいのかさえわかない。歩いてはつまずき、歩いてはつまずき・・・・。そのように人々が生きている社会のありようがそこに描き出されています。
そして、そのような暗闇の中にうなり声が響いているのです。11節はこう続きます。「わたしたちは皆、熊のようにうなり/鳩のような声を立てる。正義を望んだが、それはなかった。救いを望んだが、わたしたちを遠く去った」。社会の中に、嘆きの声が響いています。失望と落胆、また怒りと苛立ちの声が響いています。熊のうなり声のように。「正義を望んだが、それはなかった。救いを望んだが、わたしたちを遠く去った」と。正義なんかない。救いもない。そのような声が響き渡っているのです。
そのようなうなり声は声は誰に向けられているのでしょう。「正義を望んだが、それはなかった。救いを望んだが、わたしたちを遠く去った」。実際には、社会の中に様々な対象に向けられた諸々の声が響いていたのだと思います。現代においても私たちが目にしているように、「あいつが悪い」「こいつが悪い」と人々が口にしていたのでしょう。しかし、イスラエルの話ですから、その全ては最終的には神に向けられていたとも言えます。「正義を望んだが、それはなかった。救いを望んだが、わたしたちを遠く去った」。
社会に満ちるうなり声。神に向けられた嘆きの声。失望と落胆、怒りと苛立ちの声。それに対して、神は何と言われるのでしょう。実は、この人にはもうわかっているのです。というよりも、その神の答えこそ、この人自身が社会に向かって語ってきた言葉だったからです。この人は預言者です。預言者は人々に神の言葉を語るのです。
1節以下に、この人が預言者として語ってきた言葉が記されています。「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が/神とお前たちとの間を隔て/お前たちの罪が神の御顔を隠させ/お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ」(1-2節)。
そのように語ってきた。だからこの人にはもうわかっているのです。なぜ誰もが光を望みながら現実には闇に閉ざされているのか。なぜ暗闇の中を手探りするように歩いているのか。なぜ暗闇の中を歩くように、歩いてはつまずき、歩いてはつまずき、ということを繰り返しているのか。「正義がない!救いがない!」といううなり声が社会に満ちているけれど、いったい何が問題なのか。この人にはわかっているのです。問題は神と人との間にあるのです。神と人との間が隔てられている。断絶している。関係の破れがそこにある。それこそがこの世界の根本問題であり人生における根本問題なのです。
だから、うなり声が響いている社会のただ中で、彼はこのような言葉を口にするのです。今日の朗読の冒頭をもう一度お読みします。「御前に、わたしたちの背きの罪は重く/わたしたち自身の罪が不利な証言をする。背きの罪はわたしたちと共にあり/わたしたちは自分の咎を知っている。主に対して偽り背き/わたしたちの神から離れ去り/虐げと裏切りを謀り/偽りの言葉を心に抱き、また、つぶやく。こうして、正義は退き、恵みの業は遠くに立つ。まことは広場でよろめき/正しいことは通ることもできない」(12‐14節)。
ここで彼が「わたしたち」という言葉を繰り返していることに注意してください。先ほども言いましたように、彼は預言者として人々に神の言葉を語ってきたのです。社会に向かって語ってきたのです。「お前たちの悪が」「お前たちの罪が」と語ってきたのです。具体的には社会に満ちる不正、権力者たちによる暴虐と圧制、宗教的指導者たちの腐敗を問題として語ってきたのです。それは神に遣わされた者としての使命であり、罪を罪として語る言葉はイスラエルの社会にとっても必要だったのです。いやそれがどこであっても、いつの時代でも、罪が罪として、悪が悪として語られることは必要なことなのです。
しかし、先にも申しましたように、問題は神と人との関係なのです。ならば神と彼らの関係だけを問題にすることはできません。「お前たちの悪が」「お前たちの罪が」と語っている自分自身もまた神の御前にいるのですから。それが分からなければ、ただ「お前たちの悪が」「お前たちの罪が」とだけ言い続けるのでしょう。しかし、この人はそうではありませんでした。神の御前にある一人の人間として、罪ある人間として、「わたしたちは」と語っているのです。
「御前に、わたしたちの背きの罪は重く/わたしたち自身の罪が不利な証言をする。背きの罪はわたしたちと共にあり/わたしたちは自分の咎を知っている。」――真に神の御前に立つとはこういうことなのでしょう。この世界に満ちる悪をわが悪として認め、この世界の背きをわが罪として悔いる人の姿がそこにありました。
罪を悔いる者のもとに来ると主は言われる
そのような人であるからこそ、彼はまた、神がこの世界をどのように見ておられるかをはっきりと知る人でもあったのです。彼は言います。「主は正義の行われていないことを見られた。それは主の御目に悪と映った」(15節後半)。そして、こう続けるのです。「主は人ひとりいないのを見/執り成す人がいないのを驚かれた」(16節前半)。
「人ひとりいない」。それは「執り成す人がひとりもいない」ということです。神はその事実に驚きをもって目を向けておられます。「執り成す人がひとりもいない」。「執り成す人」というのは神と人との間に立つ人です。そこに立てる人がひとりもいない。
問題は神と人との関係だと先ほど申しました。「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が、神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ」と語られてきたのです。ではその隔てはどうしたら取り除かれるのでしょう。誰が神と人との間に立って、人のために執り成すことができるのでしょう。
「執り成す人がひとりもいない」――「いいえ、ここにわたしがいます」と彼は言うことができるのでしょうか。いいえ、彼は言うことができない。彼自身もまた「御前に、わたしたちの背きの罪は重いのです」と言わざるを得ない者だからです。彼自身が執り成しを必要としているのです。
この人には分かっているのです。神の御前に立って人のために執り成すことのできる正しい人は、ひとりもいないということ。神がご覧になっている通りだということ。ならば、それは何を意味するのでしょう。人間の側から救いの道を開くことはもはやできない、ということです。それを成し得る人がいないのですから。
しかし、この人の言葉はそこで終わらないのです。その先があるのです。人間の側から救いの道を開くことができないゆえに、神が自ら行動を起こされるのです。人間の罪による神との関係の破れについて、人間の側からはどうすることもできないゆえに、それは神の側から始まるのです。それゆえに、「主は人ひとりいないのを見/執り成す人がいないのを驚かれた」という言葉は次のように続くのです。「主の救いは主の御腕により/主を支えるのは主の恵みの御業」(16節後半)。
神は自ら救いの行動を起こされます。「主の救いは主の御腕による」とはそういうことです。人間によらない。神様がなされるのです。そして、「恵みの御業」という言葉は、「正義」とも訳せる言葉です。しかし、これは人間の正義ではありません。神の正しさです。神が行動を起こされる。それは人間の正しさのゆえではありません。正しい者はいないのです。一人もいない。それゆえに神は神の正しさに基づいて行動されるのです。「主を支えるのは主の恵みの御業(正義)」とはそういうことです。
そのようにして、主は贖う者として来られるのです。20節に書かれているとおりです。「贖う者」とは「救う者」と言い換えてもよいでしょう。そうです、神は救いの神として来られるのです。しかし、そこにははっきりとこう書かれています。「罪を悔いる者のもとに来ると主は言われる」。
さて、アドベント(待降節)の期間に、どうしてこの聖書の箇所が読まれたのか、もうお気づきのことでしょう。私たちは、神自ら決定的な行動を起こされたことを祝おうとしているのです。神がこの世界に独り子を与えられた。神がこの世界にキリストをお与えくださった。それがクリスマスにおいて祝われている出来事です。神と人との間を執り成すことのできる正しい人がひとりもいないこの世界に、神が唯一、神と人との間を執り成すことのできる御方を置かれたのです。神と人との間にある罪の隔てを取り除くことのできる御方を置かれたのです。そして、キリストは私たちの罪を自ら背負って十字架にかかり、私たちの罪の贖いをなし、私たちのために執り成してくださったのです。
その祝いに向かう途上において、私たちは今日、「主は贖う者として、シオンに来られる。ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来る」と主が言われるのを聞いています。アドベントの期間は、悔い改めのために私たちに与えられている期間です。神と向き合い、この世界と向き合い、そして、自分自身としっかり向き合わなくてはなりません。そのようにして、私たちはこの人と同じところに立つのです。
(祈り)
憐れみ深い天の父
真にあなたの御前にある者として、あなたの光のもとで自らを知ることのできる者とならせてください。私たち自身が断罪しているこの世の罪が私たち自身の内にあることに気づかせてください。どうかまことに罪を悲しみあなたの元に立ち帰る恵みを与えてください。そのためにあなたが与えてくださったこのアドベントのこの時をふさわしく過ごすことができますように。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。