エフェソの信徒への手紙 3:14‐21
内に働く御力によって
本日の第二朗読は次のように締めくくられていました。「わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン」(20節)。
教会の一部の人が、今、礼拝堂に集まって礼拝しています。他の人はそれぞれの場所において礼拝しています。この時間、同じ神様に向かい、共に祈り、共に礼拝をささげています。その神様はどのようなお方であるのか。聖書は今日、私たちに告げています。「わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方」であると。
今日は特に「わたしたちの《内》に働く御力によって」という言葉を心に留めたいと思います。というのも、私たちが往々にして求めているのは、神の力が私たちの《外》に働くことだからです。神の力が働いて、自分の置かれている状況が変わるように。物事がうまくいくように。人間関係で悩んでいる人ならば、「神の力が働いて、周りの人々が変わるように」と願い求めるかもしれません。しかしここで聖書は、「わたしたちの《内》に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方」と言っているのです。
神は確かに私たちが求めることをはるかに超えてかなえることがおできになる。しかし、その時に働く神の力は、第一には私たちの《外》にではなく、私たちの《内》に働くのです。まず変わらなくてはならないのは、私たちの《外》にある何かではないからです。それゆえに、今日お読みした聖書箇所に書かれているパウロの祈りもまた、《内》に関わることが祈られているのです。神の御力によって《内》に起こらなくてはならないことがあるからです。
内なる人を強めてください
「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように」(16‐17節)。
パウロはエフェソの信徒たちのために、「内なる人を強めてください」と祈ります。「内なる人を強めてください」とは、「精神的に強くしてください」という意味ではありません。「内なる人」とは、「信仰によって内に誕生した新しい人」のことです。信仰者としての《わたし》です。
イエス・キリストを信じる時、聖霊によって新しい《わたし》が生まれます。ここでパウロがしているように、天地の造り主なる神を「父」と呼ぶ、新しい《わたし》が生まれます。言い換えるならば、「父」を呼び求める神の子どもとしての新しい《わたし》が生まれるということです。信仰を持って生き始めるとはそういうことです。その「内なる人」は生まれたばかりの時は、いわば赤ん坊です。赤ん坊は弱いのです。ですから、生まれながらの以前からの《わたし》、他の手紙では「外なる人」と呼ばれていますが、その「外なる人」が支配的になることはあり得ます。それは新しい人、「内なる人」が、弱いからです。しかし、父なる神は新しく生まれた「内なる人」を強めてくださいます。ですから私たちの側としては、信仰者として成長すること、「内なる人」が強められることを神に求めて良いし、祈り求めるべきなのです。
では、「内なる人が強められる」とは、具体的にどのようになることでしょうか。そこで重要なのは、キリストとの関わりです。パウロはこのように祈ります。「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように」(17節)。これが、内なる人が強められるということです。
「愛に根ざし、愛にしっかりと立つ」。この「愛」とは後に明確に語られていますように、「キリストの愛」です。植物に例えるならば、キリストの愛という大地に深く広く根を張るようになることです。建物に例えるならば、キリストの愛という絶対にゆるぎない土台の上にしっかりと建て上げられた家のようになることです。
そのことを考えますと、ここで語られているのは聖書をお勉強して少しでも良い人になりましょう、というような次元の話ではないことはすぐに分かります。神が私たちの心の内のもっとも深いところにまで働きかけてくださるのでなければ成り立たないのです。ですから、それは「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせてくださるように」という表現になるのです。そのようにして、内なる人が強められる。キリストの愛に深く広く根を張り、キリストの愛を土台として生きる者となるのです。
キリストの愛を知るように
以上述べてきたことから明らかなように、内なる人が強められるということは、本当の意味でキリストの愛を知るということでもあります。パウロはさらに続けます。「また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」(18‐19節)。
キリストの愛を知るということは、キリストの愛の大きさを知るということです。しかし、パウロはただ「キリストの愛の大きさがどれほどであるか」とは言いません。「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるか」と表現するのです。その言葉はまさに、その愛の中に立っている人の言葉です。外から見て愛の大きさについて語っているのではないのです。
内に働く神の力は人間の傲慢さを砕きます。神の力は人間の最も深きところにまで及んで、人生の隅々まで及んで、人間の罪を明らかにされます。自分を正しい者として、他者を裁き断罪する側に身を置いていた者が、実は自分こそ神の御前においては裁かれる側にいるのだということを神によって知らされます。そのようにして、パウロもまた神によって砕かれた人でした。
しかし、そのパウロが、自らの罪を自覚したパウロが、キリストの愛の中に立っている自分自身を見出したのです。そのパウロがキリストの愛を語っているのです。その愛の中に立って見渡しても果てが見えない。前を向いても後ろを見ても、ぐるりと見まわしても果てが見えない。上を見ても下を見ても、果てが見えない。そのようなキリストの愛だからこそ、こんな自分もまたその中にいるのだ、ということをパウロは知っているのです。本来ならば外に放り出されていても不思議ではない私なのに、それでもなお私はキリストの愛の中にいる!「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する」とはそういうことです。
それは内に働く神の御力による奇跡です。ですから「人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり」という表現になるのです。これは本来言葉の矛盾でしょう。人知を超えているのですから、知り得るはずはないのです。しかし、パウロはエフェソの信徒がそれを知るようになることを祈ります。人にはできなくても、神はおできになるからです。だから同じように、エフェソの信徒たちも、ここにいる私たちもまた祈り求めるべきなのでしょう。人の知識をはるかに超えるキリストの愛を知ることができるように、と。
満ちあふれる豊かさのすべてにあずかって
そして、その愛を知るだけでなく、「そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」(19節)と祈ります。キリストを信じる生活、新しく生まれた神の子どもとしての生活、「内なる人」の生活、私たちの信仰生活はついにここにまで至るのです。
計り知れない愛の広さ。計り知れない愛の長さ。計り知れない愛の高さ、深さ。そのような人の知識をはるかに超える愛。その愛そのものであるイエス・キリストが私たちの心の中に住んでくださるというのです。その愛に深く根を下ろした生活、その愛を土台として建てあげられた生活は、どのようなものとなるのでしょう。それはまさにキリストの似姿となるのでしょう。パウロは別の書簡でもこう言っています。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」(2コリント3:18)。
それこそまさに「そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」という祈りによってパウロが願い求めている姿に他なりません。それは主の霊によるのです。だから祈るのです。
しかし、これはあまりにも現実離れした祈りではないでしょうか。パウロは本当にこのようなことを信じて祈っているのでしょうか。――そうです、信じて祈っているのです。彼は今、呼び求めている天の父をたたえてこう加えます。「わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン」(20‐21節)。
天の父はかなえることがおできになる。私たちが求めることをはるかに超えて。「はるかに超えて」というのですから、私たちが現時点で見ているのは、神の為し得ることのまだまだ極々一部であるということでしょう。私たちの内に起こっていることも、神の為し得ることの、まだまだ極々一部です。私たちはこれからも、この世界のために祈り求めると共に、私たち自身が変えられていくことを祈り求めていきましょう。
(祈り)
憐れみ深い天の父よ、
あなたは私たちを新しく生まれさせ、あなたを天の父と呼んで、あなたを礼拝して生きるようになりました。そのように内なる人を新しく生まれさせてくださったことを感謝いたします。天の父よ、どうぞ私たちの内に力強く御力を現してください。内なる人を強めてください。私たちを変えてください。そのように内なる人が成長し、新しい生活を形作るようになりますように。主の御名によって祈ります。アーメン。