2020年11月29日日曜日

「今この時を生きる」

マタイ24:36-44

 今日から待降節(アドベント)に入りました。週報に書きましたように、クリスマスまでのこの期間は、キリストの到来を心に留める期間です。それは馬小屋に生まれた第一の到来だけでなく、王の王、主の主として来られる第二の到来、キリストの再臨を覚える期間でもあります。

ノアの時と同じである
 主の再臨については、使徒信条において次のように告白されています。「かしこより来たりて生ける者と死ねる者とを裁きたまわん。」特に、この「生ける者と死ねる者とを」という言葉について、ファン・ルーラーというオランダの神学者が非常に印象的な言葉をもって講解しています。今日の箇所ともかかわりますので、ご紹介いたします。

 「彼(キリスト)は生きている者をも裁かれるでしょう。最後の審判の日には、既に死んだ者たちだけがそこに存在するのではありません。そこには生きている者もまた存在するのです。これは素朴な表現ですが、そこには重要なことが語られております。最後の審判の日は、一見、何の変哲もない普通の日なのです。それは歴史上の多くの日々のうちの一日です。生活はごく普通に営まれています。しかし、まさにその日、人の子は帰って来られるのです、思いがけなく、夜にやってくる盗人のように。」(A.A.van Ruler "IK GELOOF"より)。

 今日読まれました福音書において、イエス様もまたその日を、一見すると何の変哲もないごく普通の日として語っておられます。それは「ノアの時と同じ」だと言うのです。36節以下をご覧ください。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである」(36‐39節)。

 「ノアの時」というのは、直訳すると「ノアの日々」という言葉です。「洪水になる前は」とは、直訳すると「洪水になる前の日々は」です。「日々(days)」――そうです、そこには当たり前のように人々が食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりして過ごしてきた、なんの変哲もない「日々(days)」があったのです。それに対して、「ノアが箱舟に入るその日」は、単数の「日(the day)」です。人々は、まさに「その日」も、いつもと同じ「日々」と同じだと思っていたのです。しかし、そうではありませんでした。それは特別な「日」、「裁きの日」となったのです。

 ある日が、突然、特別な日となってしまうということについて言えば、類似の経験からある程度理解できます。もう9年以上前になってしまいましたが、今なお鮮明な記憶として残っているのは2011年3月11日の大震災でしょう。そして、ある日、首都圏に直下型の大地震が起こるならば、同じように、いつもと同じ日々であると思っていたその日は、突如として「特別な日」となるはずです。

 ならば、キリストの再臨の日も、それと同じであろうことは理解できますし、キリストが語っておられることは想像することもできます。それは「ノアが箱舟に入るその日」と同じです。あるごく普通の日と見える一日が、それまでの歴史を総括し、私たちの人生をも総括する特別な日となるのです。

 ところで、ここでノアの時代の人々について、彼らが滅びたのは悪行のゆえであるとは語られていないことは注目に値します。ただ「食べたり飲んだり、めとったり嫁いだり」と語られているだけです。イエス様の言葉の元となっている創世記6章のノアの物語の冒頭は、実はこうなっているのです。「この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた」(創世記6:11)。だから、神はノアに「わたしは地もろとも彼らを滅ぼす」(同13節)と言われたのです。しかし、イエス様は人々の不法そのものには全く言及しておられないのです。

 そのように、イエス様が問題にしておられるのは、他のことなのです。それは、彼らが神の正しい裁きの日を考えずに生活していたことです。ある一日が、特別な一日、裁きの一日となることを思うことなく生活していた、ということなのです。これまでの日々のように、明日も、またその次の日も、自分の手の中にあるかのように、自分のコントロール下にあるかのように生きていたことが問題とされているのです。そのような神なき日常性の上に、神の裁きは臨むことになるのです。

 その時、それまでの当たり前の生活の中において、決定的な区別と分離が起こります。神に受け入れられるのか、神に退けられるのか、神に救われるのか、滅びるのか、二通りに分かれるのです。神によって分けられるその区別に比べるならば、この世のいかなる区別も取るに足りないものとなるでしょう。

 そこではまったく個々の人間が問われることになります。まさに神は、個々の人間に真剣に向かわれるのです。「一人は連れて行かれ、もう一人は残される」(40、41節)とはそういうことです。神が個々の人間と真剣に向き合われ、かかわられる。そこで私たちは他のだれをも問題にできません。親を問題にできません、子供を問題にできません、最終的には何事も妻のせいにも、夫のせいにもできません。「わたし」がどうであるか、「わたし」がどう生きてきたかの問題となるのです。神の裁きにおいては皆、一人の人間です。「一人は連れて行かれ、もう一人は残される」。そういうことです。

だから目を覚ましていなさい
 では、私たちはどうすべきでしょうか。教会は、神を見失ったこの世界に、滅びに瀕しているこの世界に、まず何にもまして、キリストを宣べ伝えるべきでしょうか。もちろんそうです。神の裁きが真剣に受け止められるならば、そこではまた、悔い改めの必要性、罪からの救いの必要性も真剣に受け止められねばならないからです。私たちは、神の御前にあるこの世界に、キリストの名によって「罪の赦しを得させる悔い改め」(ルカ24:47)を宣べ伝えねばなりません。それは教会の大きな使命です。

 しかし、少なくともこの箇所においては、別の事柄が語られていることにきちんと耳を傾けなくてはなりません。主は言われます。「だから、目を覚ましていなさい」(42節)。これは世に対する言葉ではありません。その後に「いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである」と書かれています。そのように、これは「自分の主」を知っており、「自分の主」の帰りを待っているはずの者、すなわちキリスト者に対する言葉なのです。つまり、私たちは、まずこの世をではなく、自らを問わねばならないのです。教会は、キリスト者は、まず自らを省みなくてはならないのです。

 目を覚ましているとは、42節の言葉から明らかなように、主の帰りを待つ者として、備えつつ生きるということです。その意味するところについては、今日は朗読されませんでしたが、続く45節以下に次のように書かれています。「主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間どおり彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである」(45‐46節)。

 主人を待つ僕について、主人が望んでいるのは、僕が有能であることではありません。単に僕が良く働くことでもありません。主人が望んでいるのは、僕が忠実であることです。忠実な僕は、主人の意思を重んじます。主人が願うことを行おうとします。そして、主人が託してくださっている務めを重んじます。主人が託してくださっている人々(この場合、使用人)を重んじます。

 総じて言えば、忠実な僕とは主人を重んじる僕のことです。それは主人を愛している僕であると言いかえてもよいでしょう。主人を愛している僕は、主人の帰りを待ちわびます。ですから、主人がいつ帰ってきてもよいように備えます。その結果、彼は主人が帰ってきたとき、言われているとおりにしているのを見られることになります。忠実である僕は、こうして賢い僕でもあります。主人は、小さなことに忠実であった賢い僕に、さらに大きなことを託します。

 このように、私たちに求められているのは、主を待つ者として忠実な賢い僕として生きることです。「目を覚ましていなさい」とはそういうことです。ここに明らかなように、忠実であることが問われるのは、私たちの日常です。私たちの「日々」です。すなわち、ごく普通の日常生活であり、毎日のことです。日曜日だけのことではありません。このことは、皆で毎週日曜日に教会に集まることのできない私たちが、特に心にとめるべきことであろうと思います。

 ちょうど8ヶ月前の3月29日、頌栄教会は日曜日にこの場所に皆で集まることができなくなりました。私たちだけではありません。新型コロナウイルスのパンデミックにより、世界中の教会が日曜日に集まることの困難に直面しました。そのことによって何が起こったのか。頌栄誌にも書きましたが、このことによって、いわゆる“サンデークリスチャン”が成り立たなくなったのです。日曜日に教会に行けないのですから。それは改めて世界中のキリスト者が、真に神と共に生きるとはいかなることか、御言葉に聴いて生きるとはいかなることかを問われることになりました。日曜日に集まれない自分が、今、聖書を手にしているということが何を意味するのか。同じように聖書を手にしている友がいることが何を意味するのか。そのことに改めて、目を向けされられる出来事となりました。御言葉に聴いて生きるためには、自ら祈って聖書を開かざるを得なくなったのです。

 実際には、多くの教会でインターネットを介してのオンライン礼拝が始まりました。わたしはそれにはそれなりの意味があろうかと思います。一概に否定するものではありません。しかし、あくまでも用いる「人」によると思いますが、もしオンライン礼拝が、違った形でのサンデークリスチャンを作り出してしまうなら、自ら聖書も開かない、ただ日曜日の1時間ほど画面の前にいるだけのクリスチャンを作り出してしまうなら、それこそ災いであると言わざるを得ません。

 「目を覚ましていなさい」と主は言われます。それは日々のことです。特にアドベントのこの期間、あるべき姿に立ち帰り、日々御言葉に聴き、祈りつつ歩んでまいりましょう。

(祈り)

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