出エジプト記13:17-22
今日朗読された福音書において、イエス様はこう言っておられました。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ8:12)。イエス様は光です。その光であるイエス様が「わたしに従う者は…」と言うのですから、イメージとしてはただ照らしてくれる光というのではなくて、「先を行く光」です。つまり「導きの光」ということです。
ところで、「導きの光」と言いますと、イエス様のお話を聞いていた当時の人にはピンと来るものがあったはずです。旧約聖書に、光に導かれた人たちの話が出て来るのです。ユダヤ人の先祖、イスラエルの民の話です。彼らはモーセという人によってエジプトから脱出したのですけれど、その後、荒れ野を延々と旅することになりました。その時に、昼は雲の柱、夜は火の柱が彼らを導いたという話が出て来るのです。だいたい、昼間は暑くて旅するのは困難なのですから、実際には夜に移動することの方が多かったと思います。暗闇の荒れ野を旅するのに、火の柱、導きの光がなかったら、とてもじゃないけれど動けないでしょう。
本日の第一朗読では、そのように荒れ野を旅するイスラエルの人たちの話が読まれました。雲の柱、火の柱に導かれながら歩むイスラエルの民。そんな彼らの姿に、イエス様という導きの光に導かれて生きる私たち自身の姿が重なります。
遠回りの旅路
エジプトを脱出したイスラエルの民には目的地がありました。彼らは神が約束してくださった地、カナンの地へと向かっていたのです。そのカナンの地へと向かう一番の近道は地中海に沿ったルートでした。後に「ペリシテ街道」と呼ばれるようになるルートです。 ところが今日読まれた聖書箇所にはこう書かれています。「 さて、ファラオが民を去らせたとき、神は彼らをペリシテ街道には導かれなかった。それは近道であったが、民が戦わねばならぬことを知って後悔し、エジプトに帰ろうとするかもしれない、と思われたからである。神は民を、葦の海に通じる荒れ野の道に迂回させられた。イスラエルの人々は、隊伍を整えてエジプトの国から上った」(17‐18節)。つまり、神は彼らを最短のルートではなく、あえて遠回りをさせられたと言うのです。
目的地が明確である時に遠回りは嫌なものです。無駄な時間は費やしたくない。無駄な労苦はできる限り避けたい。効率よく目的を達成したい。しかし、現実にこの世においては、遠回りを強いられることは少なくありません。それは旧約聖書に見るイスラエルの歴史に良く現れています。聖書に見る人間の営みは、無駄に費やされた時間と無駄に費やされた労苦の連続です。それはこの世界全体の歴史にも言えるでしょうし、私たち自身の人生についても言えるのでしょう。
そのような遠回りは、一面において、人間の罪と不従順に起因すると言えます。イスラエルは結局この後、40年も荒れ野をさまようことになるのですが、聖書ははっきりとその原因となった人間の不従順について語っています。人間は確かに、神に背いて、あえて遠回りになるような愚かなことをするものです。
しかし、それが全てではありません。神に従順であれば遠回りをすることはないのか。神に従順であれば、すべては順調に進み、近道を行くことができるのか。必ずしもそうではないことを、今日の聖書箇所は伝えています。彼らは雲の柱、火の柱に導かれながら旅をしているのです。彼らは神に従ったのです。そして、それゆえに遠回りをすることになったのです。神はあえて葦の海に通じる荒れ野の道へと迂回させられたのです。それは決して不従順の結果ではないのです。
神の配慮と目的
ではなぜなのか。先ほどお読みした聖書の言葉は、そこに神の配慮があったことを教えています。地中海沿岸を進み、そこに住む人々と戦わなくてはならなくなったら、彼らは後悔してエジプトに帰ろうとするかもしれない。神はそう考えて、荒れ野へと彼らを導かれたのだと言うのです。
私たちは後に、神の判断が正しかったことを知らされます。彼らには確かにその弱さがあったのです。実際、後に荒れ野の旅路の厳しさの中で、彼らはこのように不平を言い始めるのです。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。…」(16:3)。このような弱さを持つ民が、エジプトから解放された直後に戦いに巻き込まれたらどうなるか、火を見るよりも明らかであったことでしょう。
神はしばしば人間の弱さに対する配慮から、遠回りの道へと導かれます。もちろん、その神の意図は、人の目には隠されています。ですから、それは人間にとってしばしば不愉快なことでしかありません。しかし、神の配慮は後に明らかになるものです。「神は彼らをペリシテ街道には導かれなかった」と書かれていました。この「ペリシテ街道」(直訳すると「ペリシテ人の地の道」)という呼び名はモーセの時代のものではありません。後の時代の呼び名です。後にその時のことを振り返っているのです。そのように信仰の目をもって歴史を振り返る時に、そこに神の導きのおける特別な配慮があったことを見ることができるのです。
さらに言うならば、そこにはわざわざ「葦の海に通じる荒れ野の道」と書かれています。これは続く14章に直接関係します。葦の海で何が起こるのでしょう。そこでイスラエルの民は、《前は海、後ろは追い迫るエジプト軍》という絶体絶命の危機に陥るのです。しかし、神の奇跡により海が分かれ、彼らは海の中にできた道を進んでいくことになります。これが後々まで語り継がれることになります葦の海での奇跡です。つまり、イスラエルの民はそこで、彼らの救いが完全に神の恵みによることを経験することになるのです。
このように、ただ人間の弱さへの配慮ということだけではなく、積極的な意味において、神は特別な目的のゆえに、民を遠回りの道へと導かれたということなのです。彼らには、約束の地に入る前に経験しなくてはならないことがあったのです。そして、彼らが経験すべき神の恵みは、遠回りを通して初めて得られるものだったのです。
神の約束に信頼して
さて、私たちはここで「モーセはヨセフの骨を携えていた」(19節)と書かれていることにも注目したいと思います。モーセの行為の理由は、「ヨセフが、『神は必ずあなたたちを顧みられる。そのとき、わたしの骨をここから一緒に携えて上るように』と言って、イスラエルの子らに固く誓わせたからである」(同)と説明されております。モーセは、自分の先祖の誓いを果たしているのです。
しかし、実は、このヨセフの言葉の前に、もう一つの言葉があるのです。ヨセフは、この前にこう言っているのです。「わたしは間もなく死にます。しかし、神は必ずあなたたちを顧みてくださり、この国からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた土地に導き上ってくださいます」(創世記50:24)。このように、人間の誓いの前に、神の誓いがあるのです。神の約束があるのです。ヨセフが自分の骨について誓わせたのは、《神は必ず子孫を顧みてくださり、約束の地に導き上ってくださる》という、神の真実への信頼に基づいてそうしたのです。
そのヨセフの骨をモーセは携え上ったのです。単にヨセフがそう願ったからではないのです。モーセはヨセフの骨を携え上ることによって、ヨセフの信仰を共有しているのです。イスラエルの民は必ず約束の地に着くことができる。荒れ野を歩こうが、遠回りしようが、とにかく必ず約束の地に着くことができる。神は必ず導き上ってくださる。そう信じているからこそ、骨を携えて上るのです。そして、彼らが約束の地に着くことができるとするならば、それは彼らの力や強さによるのではなく、神の約束によるのです。モーセもイスラエルの民も、ただ神の約束に信頼して、いわばヨセフの骨と共に「神の約束の言葉」を携え上っているのです。
私たちは神の御業によってエジプトを脱出したイスラエルの民が、ただちに約束の地に到着したのではないことを忘れてはなりません。それは荒れ野の旅でした。遠回りに見える旅でした。しかし、彼らには伝えられた神の約束の言葉がありました。神は必ず導き上ってくださる、と。ですから、彼らにとって重要なことは、神の約束に信頼して、雲の柱、火の柱をもって導かれる主に、安心して付いて行くことだったのです。
イエス様は言われました。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」。私たちにも神の約束が与えられているのです。私たちもまた必ず約束の地に着くのです。必ず完全な救いにあずかるのです。今は荒れ野の旅であるかもしれません。迂回の連続であるかもしれません。しかし、それがいかなる旅であれ、私たちはそこに神の配慮と目的があることを見失ってはなりません。私たちはひたすら主に信頼し、終わりの日まで、導きの光なる主に従って歩んでいきましょう。私たちを導く光は、永遠の命に至らせる、まことの命の光なのですから。
(祈り)