ルカによる福音書 2:8-20
「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」(15節)。そう言って羊飼いたちは出発しました。
「主が知らせてくださったその出来事」。それは野宿をしていた羊飼いたちに主が天使を遣わして知らせてくださったことでした。羊飼いが聞いたメッセージはこのようなものでした。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(10‐12節)。
恐れるな
「恐れるな。」これが羊飼いたちの聞いた天使の第一声でした。「恐れるな」と語られたのは、羊飼いたちが非常に恐れていたからでした。単に天使を目撃したからではありません。「主の栄光が周りを照らした」と書かれています。それはすなわち、神がまさにそこにおられるということです。羊飼いの側からすれば、《自分たちは、まさに今、神の御前にいるのだ》と自覚したということです。神が共におられる。しかし、その認識は、単純に喜びをもたらしはしませんでした。それは恐ろしいことだったのです。
宗教的なユダヤ人社会での出来事です。彼らも天地を造られた神について耳にしたことはあったでしょう。しかし、羊飼いたちは、ユダヤの社会においては、完全にアウトサイダーでした。彼らの仕事柄、宗教的な戒律を守って生活することは不可能でした。清めの祭儀を守ることができなければ、宗教的には汚れた者と見なされます。人々は彼らを神から遠い存在と見ていたでしょうし、彼ら自身、たとえ神はいたとしても、自分たちとは関係がないと思っていたことでしょう。
しかし、羊飼いたちが、自分は神とは無縁の存在だと思っていたとしても、神様の方はそう思っていませんでした。彼らが意識してようとしていまいと、彼らは神によって生かされてきたのだし、神様と無関係であったことは一瞬たりともなかったのです。その神様が羊飼いたちの生活の中に入って来られました。羊飼いたちは、神が共におられ、自分たちが神の御前にあることを知ったのです。しかし、繰り返しますが、そのことは単純に喜びをもたらしはしませんでした。
それはこの羊飼いに限ったことではありません。聖書において、様々な形における神と人との出会いが描かれていますが、多くの場合、人々の内に起こる反応は「恐れ」です。
神に対する「恐れ」はどこから来るのでしょう。聖書において、その「恐れ」の歴史を辿ってみると、ほとんど聖書の初めにまで遡ることになります。最初の人間であるアダムとエバです。彼らが神に背いた時、初めて「恐れ」という言葉が聖書に出て来ます。主なる神が近づいてきた時、彼らは「園の木の間に隠れた」と書かれています。神がアダムを呼ばれると、アダムはこう言うのです。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから」(創世記3:10)。
裸のままで、ありのままで、神に向い、神を喜ぶことができない。どうしてですか。神に背いていることが分かっているからです。自分が正しくないことを知っているからです。それゆえに神が共におられることは単純に喜びにはならないのです。だから、あの羊飼いたちも恐れたのです。
しかし、まさにその時、神様の方から声がありました。天使を通して、主は言われたのです。「恐れるな」と。主は「恐れなくてよい」と言ってくださいました。ならば、もう神の顔を避けて、園の木の間に隠れる必要はありません。私たちは恐れずに神に向かって顔を上げることができる。私たちを責め、断罪する神としてではなく、救いの神として仰ぎ望むことができるのです。
救い主がお生まれになった
そして主は、「恐れるな」と語られた後、御使いを通して、喜びの知らせを聞かせてくださいました。「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」。
救い主の誕生を真っ先に知らされたのは「羊飼いたち」でした。先ほども言いましたように、ユダヤの宗教的な社会において、彼らはアウトサイダーでした。救いから遠い汚れた人々。そのように見なされていましたし、自分もそう思っていた、そのような彼らに対して、神様は天使を通してこう言ったのです。「《あなたがたのために》救い主がお生まれになった!」と。
では、その御方はどのような意味において、わたしの、私たちの「救い主」なのでしょうか。その当時の世界において「救い主」と呼ばれる人物は既に存在していました。ローマの初代皇帝「アウグストゥス」です。彼は長い戦乱の世に終止符を打ち、後に「パクス・ロマーナ(ローマの平和)」と名付けられる「平和」をもたらしました。それは武力によって実現した平和でした。戦争や紛争が無くなることが「平和」であり「救い」であるならば、確かにローマ皇帝は「救い主」なのでしょう。しかし、大きな力が支配するところにおいては、必ず抑圧される人々が存在します。そのような人々は見えないところに追いやられます。力の支配によってもたらされた「平和」はすべての人の「平和」とはならず、「救い」ともなりません。
しかし、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」と告げた御使いは、さらにこう続けました。「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(12節)。なんと!ダビデの町にお生まれになった救い主は、「救い主アウグストゥス」とは正反対の姿でそこにいるのです。それは何を意味するのでしょうか。神が与えようとしている救いは「力」をもって実現するのではない、ということです。
そもそも救いを必要としている人間の根源的な悲惨はどこにあるのでしょうか。それは先ほど、聖書を遡って創世記に見たアダムの姿から明らかです。人が神の顔を避けて、園の木の間に隠れていることです。聖なる神の御前において、私たちは自らの罪を思い、恐れざるを得ないという現実です。まずそこから救われなくてはなりません。そのためにこそ神は「恐れるな」と言って、この世界のただ中に救い主を置かれたのです。もはや誰も恐れる必要がないほどに、無防備な姿で、貧しい姿で。人が安心して神と共に生きられるためにです。そして、その救い主はやがて後の日に、力によってではなく、十字架にかかられることにより、私たちの罪を代わりに背負われることにより、私たちの救いを全うすることになるのです。
これが主の知らせてくださった出来事です。これが主によって私たちにも知らされている出来事です。羊飼いたちは、言いました。「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか。」そう言って彼らは出発しました。そして、ついに飼い葉桶に寝かされている乳飲み子を探し当てました。もちろん、それで彼らが苦しみのない別世界に移されたわけではありません。依然として、ローマの支配下にある苦しい生活が、厳しい労働が彼らを待っていたことでしょう。しかし、彼ら自身は以前と同じではありません。彼らは神の救いの内を既に生き始め、味わい始めているのです。何と書かれていますか。彼らは「神をあがめ、賛美しながら帰って行った」(20節)と書かれているのです。
さて、私たちはまず、この羊飼いのところに身を置いて、この物語を聞くことができるでしょう。「恐れるな」と語り掛けられているのは、私たち自身です。それゆえに、「さあ、ベツレヘムへ行こう」と言って、御子のもとに馳せ参じます。そこで神をあがめ、賛美し、そして「神をあがめ、賛美しながら」生活の場へと帰って行くのです。
しかし、私たちはまた、羊飼いたちの賛美に加わらせていただく者として、この物語を読むことも必要です。私たちがアウグストゥスではなく、飼い葉桶に寝かされた御子を礼拝するとするならば、そこに真っ先に招かれているのは羊飼いたちなのです。私たちは彼らと共に神をあがめ、そして賛美しながら帰って行くことになるでしょう。私たちにとって、共に御子を礼拝する羊飼いたちとは誰なのでしょうか。
(祈り)