2020年8月23日日曜日

「知恵とは何か、分別とは何か」

ヨブ記28:20~28

暗黒の果てにまで行く人間

 本日の第一朗読はヨブ記28章20節からお読みしました。このヨブ記28章の冒頭は次のような言葉から始まります。「銀は銀山に産し、金は金山で精錬する。鉄は砂から採り出し、銅は岩を溶かして得る」(1‐2節)。

 ここに書かれているのは、鉱物資源の採掘と精錬の話です。今日の私たちからすれば何ということはありません。しかし、古代ヘブライ人にとって、地底とはまさに恐るべき暗黒の世界であり、その暗黒の果てにまで深く坑道を掘っていき、鉱石を捜し、見つけ出し掘り出し、選鉱し精錬して金属を得る探鉱と採掘と精錬の技術は、当時においていわば最先端の科学技術だったのです。それははげ鷹や、誇り高い獅子には為しえないことであり、人間のみが実現してきたことなのだ、というのがこの28章の11節までに書かれていることです。

 さて、このようなことが書かれているヨブ記ですが、このヨブ記は旧約聖書の中で「知恵文学」と呼ばれるものの一つです。「知恵文学」に分類されるものとして、他にはどういう書物があるかと言いますと、一番分かりやすいのは「箴言」だと思います。聖書を初めて読む人でも、ある意味では分かり易い「格言集」です。そこには数多くの人生訓が並べられています。私たちからすると鉱物資源の採掘の話と「人間はどう生きるべきか」という話は、全く異なる二つの話のように思えますが、知恵文学を記した人たちにとっては別な話ではないのです。要するにそこで重要なことは、探求することであり、見いだしたことを積み重ねることであり、そこから法則を導き出して適用することだからです。

 特にそこにおいて重要なのは積み重ねです。科学技術の話ならば分かり易いでしょう。すべては積み重ねなのです。ですから、そこではただ探求することだけが重んじられるのではなく、先人から伝えられたものを学んで正しく受け取るということが重要になってまいります。そして、それは「人間はどう生きるべきか」ということについても同じなのです。今生きている私たちが自ら経験して見出していくことだけが重要なのではありません。前の世代が経験して見出したことがあるのです。それを次の世代がしっかりと受けとめて、そこに自らの経験を通して見出したことを積み重ねていくことが大事なのでしょう。

 ですから、箴言には「わが子よ」という呼びかけが繰り返し出てくるのです。父が子に語るという形で人生訓が語られるのです。父は前の世代です。子は次の世代です。子は父から教訓を受け取って、そこに自らの経験を積み重ねていくのです。先に生きた人々の経験を軽んじるといことは、いわば鉱石の採掘方法を自分で一から開発しようとするに等しい。それは愚かなことです。

 そのように、知恵文学は、探求すること、積み重ねること、法則を導き出して適用することを重んじます。そして、実際、人類はそのようにして歴史の中を歩んできました。その結果、できなかったことができるようになって今日に至っているわけです。そのような人間の営みを肯定的に見ている。それが知恵文学であり、そのようにヨブ記28章の冒頭もまた書かれているのです。


持ち得ない知恵、持つべき知恵

 しかし、当然のことながら話はそれで終わりません。11節で終わらない。そこまでならば聖書でなくても言うのです。聖書はそこであえて「では、知恵はどこに見いだされるのか。分別はどこにあるのか」(12節)と問うのです。

 先人から伝えられたことを知り、自らも探求し、見いだしたことを積み重ね、法則を導き出し、できなかったことができるようになる。――そのことだけが重んじられるだけならば、人間はどうしたって傲慢になるのです。「私たちはこの世界についても、人生についても分かっている。私たちはかつてできなかったことも今はできるようになった。」と、そのように思い上がった人間が、いかに悲惨な現実を刈り取ってきたか。それは人類の歴史が示すとおりです。

 だからこそ、聖書はそこであえて問うのです。「では、知恵はどこに見いだされるのか。分別はどこにあるのか」。そして、こう続けます。「人間はそれが備えられた場を知らない。それは命あるものの地には見いだされない」。――分かったような顔をして思い上がっている人間よ、知恵はどこに見出されるのか。分別はどこにあるのか。あなたがたはそれを持っていないし、どこにあるかさえも知らないではないか!要するに、聖書はそのように語り始めるのです。

 実は、この28章というのは、ヨブ記において特別な位置にあるのです。27章までで、ヨブ記の前半が終了します。続いて全く脈絡のないように見える28章が間奏曲のように入ってくる。そして、後半が続くのです。

 前半部分は主にヨブと友人たちの論争です。数々の災いに遭って苦しんでいるヨブがいました。そこへ友人たちが見舞いに来るのです。慰めに来たはずです。しかし、そこで論争が起こってしまうのです。その内容についてはそれぞれお読みいただきたいと思いますが、あえて極めて大まかに要約するならば、ヨブの友人たちの主張は要するに、「ヨブよ、お前は罪を犯した。だから苦しみを受けているのだ」ということです。それに対してヨブの主張は「わたしはこんな苦しみを受けるような罪を犯してはいない。間違っているのは神だ」と言っているのです。友人たちは「ヨブが悪い」と言い、ヨブは「神が悪い」と言って論争しているのです。

 さて、真っ向から対立しているこの二つの主張ですが、実はヨブと友人たちには共通点があるのです。どちらも「自分は分かっている」と思っている。「わたしは知るべきことは知っているし、分かるべきことは分かっている」。それが共通点です。実際、ヨブも友人たちも、例えば箴言に書かれているようなことは知っているのです。先人の教えをしっかりと受けとめ、自らの経験を積み重ねてきた人たちです。そして、その自分が「分かっている」ことに従って言うならば、友人たちによれば「ヨブよ、お前が悪い」ということになり、ヨブからすれば「いいや、神が悪い」ということになるのです。

 しかし、そのような双方の主張が繰り広げられた後に、28章が読まれて、その中で改めて「では、知恵はどこに見いだされるのか、分別はどこにあるのか」と問われるのです。それは本日の朗読箇所である20節でもう一度繰り返されます。「では、知恵はどこから来るのか、分別はどこにあるのか。」そして、「すべて命あるものの目にそれは隠されている。空の鳥にすら、それは姿を隠している」と続くのです。

 人間は本当の知恵を持っていないだけでなく、その場所すら知らないのだ、というのです。つまり、そこに至る道すら知らない、ということです。では誰が知っているのか。「その道を知っているのは神。神こそ、その場所を知っておられる」(23節)。そうです、神だけが知っているのです。真の「知恵」は神に属する。神だけが持っているということです。

 確かに、これまで見てきたように、人間は、知り得ることは知っていったらよいし、探求して、経験を積み重ねて、分かるようになっていったらよいし、できるようになっていったらよいのです。先にも申しましたように、そのような人間の営みを知恵文学は肯定しているのです。

 しかし、それでもなお人間には分からないことがある。神の知恵に基づくことは分からないのです。人間はその「知恵」に至る道すら知らないのです。道すら知らないのですから、探求のしようもないのです。人間の努力ではどうにもならないのです。最後まで分からないことはあるのです。ただ知恵ある神だけが分かっている。――ならば私たちは、その神の前でへりくだるしかない。そして、へりくだったらよいのです。分からないことを良しとして、神の前で膝をかがめて、神を礼拝したらよいのです。それが「神を畏れ敬う」ということなのです。

 そして、全く逆説的なのですが、それこそが私たちが持つべき「知恵」なのだと言うのです。28節に「主を畏れ敬うこと、それが知恵」と書かれているとおりです。実は、これは箴言の冒頭にも書かれていることなのです。「主を畏れることは知恵の初め」(箴言1:7)と。


キリストを信じる者として

 そして、さらに言うならば、そのような知恵が最も必要とされるのは、これがヨブ記に記されているように、苦難の問題においてなのです。苦難において、私たちは問われることになります。分からないことがあるのだということを良しとすることができるのか。神だけが分かっていることがあるということを、本当に受け止めて、神の前に膝をかがめることができるのか。本当にそこで「神を畏れ敬う」ことができるのか。――「主を畏れ敬うこと、それが知恵」。その知恵をもって生きようとするならば、そこで最も大事なことは、神の愛がすべてにおいて貫かれているとことを信じることなのでしょう。私たちには分からなくても、私たちの肉の目にはそう見えなかったとしても、そこには神の愛が貫かれており、全き救いの計画の中にあると信じることなのでしょう。

 そのような神の愛こそが、神を神として畏れ敬うことを可能とするのです。そして、神はその愛をイスラエルの歴史において現され、そして究極において、イエス・キリストの到来において現してくださったのです。私たちもまた、その御方を通して神の愛を知る者とされ、信じる者として今、ここにいるのです。ならばそのような私たちにとって、なおさらこの28章のまとめの言葉は大きな意味を持つと言えるでしょう。「主を畏れ敬うこと、それが知恵、悪を遠ざけること、それが分別」。

 私たちは分からないことを良しとして、ただキリストにおいて現された神の愛を信じたらよいのです。私たちが今、神の愛の内にあることを信じて、その神を畏れ敬い、礼拝したらよい。それが私たちに与えられている「知恵」です。その一方で、私たちにも知り得ることがあり、分かることがある。すべてが分からないわけではないでしょう。ならば分かることをもって悪を遠ざけたらよい。分からない、分からないと言い続けているのではなくて、分かることをもって神の御心を行うことを願い求めたらよいのです。それが私たちの持つべき「分別」です。

(祈り)

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