2020年8月9日日曜日

「二つの招き、異なる結果」

箴言9:1‐6、13‐18

 今日の聖書箇所には、全く同じ呼びかけの言葉が二回出てきます。4節と16節です。「浅はかな者はだれでも立ち寄るがよい」。箴言を読んでいますと、この「浅はかな者」あるいは「浅はかさ」という言葉に繰り返し出会います。この言葉は、聖書全体で19回出てきますが、その内の15回は箴言に出てきます。箴言を理解する上で重要な言葉であることが分かります。

 「浅はかな者」と訳されている言葉は、もともと単純さを表す言葉で、「未熟な者」とも訳されます。成熟を必要としている、ということです。成熟を必要としているという意味では必ずしも年齢とは関係ないとも言えます。何歳になりましても、本当の意味で成熟した人間となることは、私たち皆の課題であるからです。その意味において、ここに書かれていることは、私たちすべての者に関係していると言えるでしょう。

 さて、そのような「浅はかな者」「未熟な者」に対して呼びかける二つの声があると本日の聖書箇所は教えています。聖書の表現によりますならば、二人の女性からそれぞれ呼びかける声を聞くのです。一人の女性は「知恵」といいます。もう一人の女性は「愚かさ」といいます。この二人の呼びかけは、どちらも未熟な私たちに対する成熟への呼びかけです。「浅はかな者(未熟な者)はだれでも立ち寄るがよい」と。しかし、呼びかけの言葉は同じでも、その二人の有様と、語る内容は全く異なっております。


異なる招き方

 第一に、その二人の「招き方」が異なります。

 「愚かさ」という女の方から見ていきましょう。彼女は「騒々しい女だ」と表現されています。箴言において「騒々しい女」という言葉は、あるイメージを伴っています。身持ちの悪いふしだらな女性です。今日の箇所に描かれている、「自分の家の門口に座り込んだり、町の高い所に席を構えたりして道行く人に呼びかける」のは、当時の遊女の姿です。彼女は直接的に身を現し、自ら声をかけるのです。

 そのような売春婦やふしだらな女の誘惑のように、「愚かさ」という女の呼びかけは直接的です。人間の理性的な思考にではなく、直接的な感覚に訴えます。人間の欲望に直接働きかけます。「愚かさ」の呼びかけは、しばしば非常に分かりやすく、魅力的です。ですから、その声に惹かれていく者も多いのです。

 一方、1節以下に描かれているように、「知恵」という女は直接人々と出会いません。彼女は家を建て、食卓を整えて待っています。本当の豊かさを用意して、そこに待っているのです。彼女は、自ら赴くのではなく、はしためを人々のところに遣わして呼びかけます。遣わされた者は、「知恵」の言葉を「知恵」に代わって伝えます。

 人々が目にするのははしためです。人々が耳にするのは彼女の言葉です。用意されているご馳走を直接目にするわけではありません。そのように、「知恵」の呼びかけは、直接的に感覚に訴えるものではありません。「知恵」の呼びかけは、「愚かさ」の呼びかけほど、魅力的なものとは感じられないかもしれません。ですから、聞いた者は、自ら良く考え、自分の意志をもって「知恵」を求めて「知恵」の家へと赴かねばならないのです。そうして初めて、その人は「知恵」とその用意したすべての豊かさに与ることができるのです。


異なるメッセージ

 そして、二人の「招き方」が異なるだけでなく、第二に、その二人の「呼びかけの内容」が異なります。

 「愚かさ」という女は意志の弱い者に言います。「盗んだ水は甘く、隠れて食べるパンはうまいものだ」(17節)と。「意志の弱い者」と訳されている言葉は、単に意志薄弱なだけでなく、理解力も欠落していることをも意味する言葉です。その時の感覚的なことだけに動かされ、事の結末についてまで、きちんと考えることができない、ということです。それもまた確かに「未熟さ」の現れに他なりません。そのような未熟な者に、「愚かさ」という女は、悪の魅力について語ります。そして、実際、口に甘く、そして美味しく感じるものなのです。

 そのような悪の甘さ、罪の美味しさを知ることが、成熟への道であるという呼びかけは、いつの時代にも聞かれるものです。「悪いことの楽しさを知ることが、大人になることなのだ」という声が聞こえてくるのです。実際、自分のやってきた悪事を自慢げに話し、それが酸いも甘いも噛み分けた人間になることだと吹聴する大人たちは、いつの時代にもいるのでしょう。そのようないわゆる「大人の世界」をさも魅力的に描く小説家がいます。そのようなテレビのドラマが放映されます。この時代にも、「愚かさ」という女の呼び声は、私たちの周りに響き渡っております。

 一方、「知恵」から遣わされた使者は、人々にこう呼びかけます。「わたしのパンを食べ、わたしが調合した酒を飲むがよい」と。とはいえ、使者の手にパンはありません。酒もありません。人々の目に見せることができません。はしためはただ「知恵」の家を指し示します。そして、確かに、実に豊かな食卓が、既に準備されているのです。それはどんな人でも、どんな未熟な人でも連なることのできる、まことの命の祝宴です。そして、使者が伝える「知恵」の言葉を聞き、良く考えて、自ら求めて赴く者が、その豊かさに与るのです。


異なる結果

 そして、二人の「呼びかけの内容」が異なるだけでなく、第三に、その二人の呼びかけがもたらす「結果」が異なります。

 「愚かさ」の招きは魅力的です。悪の味わいは甘美です。それが人を成熟させるようにも見えます。しかし、聖書はそこでこう付け加えるのです。「そこに死霊がいることを知る者はない。彼女に招かれた者は深い陰府に落ちる」(18節)と。

 死霊は死の世界にいるものです。しかし、愚かさの招きに誘われて、罪の甘美さに人が酔いしれている時、その人のすぐ隣りには死霊がいるのです。つまり、その人は生きながら、既に死の世界にいるということです。生きながらにして既に死んでいるのです。ですから、行き着く先も死の世界です。深い「陰府」こそが、「愚かさ」の招きに従う人の行き着くところだと言うのです。

 一方、「知恵」の招きは6節へと続きます。この節は、原文では三つの命令文から成っています。「浅はかさ(未熟さ)を捨てよ!生きよ!分別の道を進め!」悪の甘さや罪の美味しさを体験することによってではなく、まことの「知恵」の養いによって人は成熟するのだと聖書は教えるのです。そこにこそ真に「生きる」道があるのです。そして、その人は「分別の道」すなわち、「知恵」と「愚かさ」を識別する者の道を進んで行くのです。


神の「知恵」であるキリストの招き

 さて、今日の聖書箇所に登場する「知恵」ですが、箴言においてはある特別な意味合いをもって語られています。例えば、8章において、この「知恵」が次のように語っているのです。「わたしはそこにいた、主が天をその位置に備え、深淵の面に輪を描いて境界とされたとき、主が上から雲に力をもたせ、深淵の源に勢いを与えられたとき、この原始の海に境界を定め、水が岸を越えないようにし、大地の基を定められたとき」(27‐29節)。少々分かりにくかったかもしれませんが、これは天地創造の話なのです。天地創造において、「わたしはそこにいた」と言っているのです。天地創造に関わっていたというのですから、この「知恵」とは天地を造られた神の「知恵」なのです。

 そして、天地創造に関わっていたこの「知恵」は、単に擬人化されて箴言の中に語られるに留まらず、実際に一人の御人格としてこの世界に現れてくださったのだと聖書は教えているのです。イエス・キリストこそ、神の知恵の完全なる現れなのです。この御方こそ、神の「知恵」として、命の糧を豊かに備えて、私たちを食卓へと招いてくださっているのです。私たちは、この御方のもとに来て、真の命に与るのです。

 とはいえ、ここに描かれているように、神の「知恵」なるキリストは、今日、直接人々に姿を現すわけではありません。使者を通して呼びかけるのです。そして、使者は、「知恵」と同一ではなく、「知恵」のはしために過ぎません。

 実際、キリストが遣わされた使徒たちは、キリストそのものではありませんでした。彼らは欠けに満ちた人間に過ぎませんでした。私たちが手にする聖書もまた、キリストを伝えるものですが、キリストそのものではありません。聖書は、この地上において、歴史の中で、人間の手によって書かれたという側面を持っています。同様に、教会も、牧師も、礼拝において語られる説教も、聖餐のパンも、キリストそのものではありません。キリストを指し示すはしために過ぎません。これらはこの世界の中にあり、この歴史の中に存在する、まことに粗末な欠けに満ちたものに過ぎません。

 しかし、そのような使者を通して、神の「知恵」なるキリストは、呼びかけておられるのです。この世界には、「愚かさ」という女の呼びかけだけが響いているのではないのです。確かにもう一つの声が響いているのです。「愚かさ」の語る言葉はしばしば魅力的です。しかし、私たちは「愚かさ」の声に従って、滅びへと向かってはなりません。キリストの声にこそ、聞き従わねばなりません。「わたしのパンを食べ、わたしが調合した酒を飲むがよい、浅はかさを捨て、命を得るために、分別の道を進むために」と、キリストは今も招いていてくださっているのです。

(祈り)


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