エレミヤ書 29:4‐14
第一次バビロン捕囚
かつてユダ王国にヨヤキンという王がいました。18歳で王となりました。彼が引き継いだユダの王国は、時の超大国バビロニアの侵攻に遭って既に瀕死の状態でした。彼が王となってほどなくして、エルサレムは完全にバビロニア軍に包囲されました。都の陥落は時間の問題でした。やむなくヨヤキンはバビロンのネブカドネツァルに対して無条件降伏しました。彼は王位から退けられ、その治世はわずか三ヶ月で終わりを告げました。そして、ヨヤキンをはじめ、エルサレムの高官や職人、祭司や預言者など、主だった人々は捕囚として異国の地バビロンに強制連行されました。第一次バビロン捕囚と呼ばれる出来事です。紀元前598年のことでした。
エルサレムには捕らえ移されずに残された預言者たちもいました。やがてエルサレムでは、そのような預言者たちの活動が活発になりました。敗戦後、気落ちした人々を励ますことが彼らの使命であると感じていたのでしょう。彼らは、神がすぐにでもエルサレムの都を回復し、捕らえ移された人々を連れ戻してくださると語りました。その中にハナンヤという預言者がいました。彼の言葉がエレミヤ書に残されています。彼は人々にこう言って励ましたのです。「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしはバビロンの王の軛を打ち砕く。二年のうちに、わたしはバビロンの王ネブカドネツァルがこの場所から奪って行った主の神殿の祭具をすべてこの場所に持ち帰らせる」(28:2‐3)。
一方その頃、預言者エレミヤは牛がつけるような軛を自分の首にぶらさげてエルサレムを歩き回り、人々にこう語っていました。「首を差し出して、バビロンの王の軛を負い、彼とその民に仕えよ」(27:12)。他の預言者たちと真逆のことを語っていたのです。戦勝国の王に仕えよと語るエレミヤを人々は憎みました。神がすぐにでも救ってくださると語るハナンヤの方が、よほど信仰的に見えたに違いありません。
しかし、エレミヤにはわかっていたのです。この出来事は単なる災いではない。ここには神の裁きがある、と。ならば本当に大事なことは、ただ元通りになることではありません。神の裁きを裁きとして受けいれて、悔い改めることです。それこそがエレミヤの負っていた軛の意味だったのです。
現在を大切に堅実に生きる
今日お読みしたのは、そのようなエレミヤが、捕らえ移された人々に書いた手紙です。
当時の捕囚民の精神的状況は主に二通りに分かれていたものと思われます。一方において、そこには望みを失った人々がいました。それまでの生活のすべてを奪われ、異教の地に連れ去られ、未来に対する展望などまったく持ち得なかった人たちです。彼らの多くはもともと特権階級にいた人たちですから、すべてを失ったときに自暴自棄にならざるを得なかったことは想像できます。
しかし、もう一方には熱狂的に解放の時を待望している人々がいました。エルサレムに、速やかな解放を告げるハナンヤのような預言者がいたことを思い起こしてください。同じような預言者たちは、捕え移された先のバビロンでも活動していたのです。今日お読みした箇所にこう書かれていました。「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。あなたたちのところにいる預言者や占い師たちにだまされてはならない。彼らの見た夢に従ってはならない」(8節)。実際には、そのような預言者に扇動された人たちがひたすら解放の日を待望していたのです。
さて、そのような人々に対してエレミヤが書き送った手紙は、このようなものでした。「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしは、エルサレムからバビロンへ捕囚として送ったすべての者に告げる。家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。そちらで人口を増やし、減らしてはならない」(4-6節)。つまり、エレミヤは、日々の生活において絶望して自暴自棄になるのでもなく、また解放だけを夢見て熱狂的になるのでもなく、異教の地においてもその日々の生活を大切にし、堅実な生活を営み、イスラエルの民として存在し続けるようにと語ったのです。
このことが先に述べた両者に対して語られていることは重要です。というのも、絶望している人々にも熱狂している人々にも共通していることがあったからです。それは現在を軽んじているということです。今、目の前にある生活を大切にしていないということです。 特に、後者はそれが宗教的であるだけにやっかいです。しばしば、そちらの方が信仰的に見えるからです。いつの時代においても、神による奇跡的な救済を熱望するあまり、人間が自らの責任をもって営まなくてはならない現実の生活をまったく大切にしない人々はいるものです。一見信仰熱心に見えるけれど、まったく地に足がついていないのです。
しかし、ここでエレミヤは彼らに、本当の信仰は、地上の生活を疎かにさせるのではなく、むしろ出来事の意味を悟らせ、地に足のついた堅実な生活を営ませるものであることを語るのです。そして、エレミヤは彼らに驚くべきことを勧めるのです。彼らを捕囚にしたバビロンの町のために平安を祈れ、と言うのです。バビロンが滅亡することを夢見るのではなく、むしろその町の平安のために祈れ、と。
その理由はこの手紙の中に明らかにされています。主はバビロンを「わたしが、あなたたちを捕囚として送った町」(7節)と呼ぶのです。そうです、彼らは単に敗戦のゆえに捕え移されたのではないのです。主ご自身が「送った」というのです。彼らがある期間、バビロンで生活することには神の意図があるのです。これは単に不可抗力によってもたらされた災いではないのです。
神が意図をもって送ったのならば、そこには必ず為すべきことがあるはずです。彼らはそこで最善を尽くさねばなりません。彼らの場合、まずは目の前の町のために平安を祈ることでした。それが彼らに平安をもたらすことでもあるのです。そして、実際にバビロンにおける生活がある期間、平安に保たれたからこそ、歴史物語もまとめられ、このエレミヤ書もまとめられ、このように残っているのです。
主を呼び求めよ
神様はさらにエレミヤを通して、彼らがそうすることができるように励ましの言葉を語ります。これは私たちもまたしっかり心に刻みつけておかなくてはならない言葉です。「主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」(10-11節)。
すべては「神の時」へと向かっています。聖書はそれを「時が満ちる」と表現します。やがて時が満ちて実現することがあるのです。そこには神の計画があるからです。しかも、その計画は「平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」と主は言われるのです。
捕囚という出来事は、イスラエルの人々にとっては災いとしか映らなかったでしょう。しかし、主が見ておられるのは計画の全体です。それはイスラエルの将来と希望を与えるための計画なのです。その主が言われます。「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている」。主は御自分が立てた計画を知っています。どのようにこれがイスラエルの将来と希望に結びつくのかを知っています。そのように主が「心に留めている」ならば、本当はそれで十分なのです。主が知っていてくださるのですから。
人が知るべきことは多くはありません。すべてのプロセスを知る必要はありません。知るべきことはただ一つ。神が善であり愛なる御方であるということです。災いと見える出来事のただ中に置かれた時、私たちは未来に不安を抱きます。ある人は未来を知りたいと願うかもしれません。そのような人は占い師のところに行くのでしょう。しかし、本当に大事なことは「未来を知る」ことではなく「主を知る」ことなのです。未来において自分の願いが実現することを求めるのではなく、主を求めることなのです。
ここを読みまして、どうしても重なってきますのは、今私たちが経験していることです。「コロナ禍」と人は言います。しかし、本当にこれは単なる禍なのでしょうか。対処しなくてはならない禍なのでしょうか。私たちが第一に求めなくてはならないのは、この出来事の終息ではなくて、主ご自身なのでしょう。主は解放を求めている人々にエレミヤを通してこう言われたのです。「そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる」(12‐14節)。
実は、12節の「そのとき」という言葉は原文にはありません。つまり、「わたしは聞く」と言われるのは、70年後のことではなく、今なのです。苦難の生活を強いられている今こそ、絶望したり熱狂したりするのではなく、堅実な生活を営みながら神を尋ね求めるべきだと主は言われるのです。そのように尋ね求めるならば、主は「わたしに出会うであろう」と言われるのです。本当の救いは、苦難から解放されるその時に与えられるのではなくて、神を尋ね求め、神に出会うことにおいて与えられるのです。それこそが、本当の意味で将来と希望につながるのです。私たちも、今この時になすべきことは、真剣に、本気で主を求めることなのです。
(祈り)