2020年8月30日日曜日

「解放された新しい生き方」

 ローマの信徒への手紙 7:1‐6

律法に対して死んでキリストのものとなる

 今日の第二朗読は次のような言葉から始まりました。「それとも、兄弟たち、わたしは律法を知っている人々に話しているのですが、律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか」(1節)。

 パウロは律法を知っている人々に話しています。具体的にはユダヤ人のことです。「律法」と言う場合、第一には聖書の初めの五つの書を指します。「創世記」から「申命記」までです。ヘブライ語で「トーラー」と言います。ユダヤ人にとって、この「律法」を学ぶことは極めて重要です。暗記を中心とした律法の学びは幼い時から始まります。これを書いているパウロはそうやって育ってきたのです。またパウロが話しかけている「律法を知っている人々」もまた、そのように育ってきたのです。

 なぜ律法の学びが重要なのか。ユダヤ人にとって、「律法を遵守すること」こそが、すなわち「神に従うこと」だからです。だから、特にファリサイ派のユダヤ人は、この律法を解釈し、生活のすべてに適用して生きようとしたのです。それこそが神に従うことだからです。

 その律法について、パウロは「律法とは、人を生きている間だけ支配するものだ」という話を始めます。その実例として挙げているのは、結婚に関する律法です。これはユダヤ人でない、私たちにも分かりやすい実例です。続きをお読みします。「結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです。従って、夫の生存中、他の男と一緒になれば、姦通の女と言われますが、夫が死ねば、この律法から自由なので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません」(2‐3節)。

 ある男性がある女性と結婚をしたとします。その両者は生きている限り婚姻に関する律法に縛られます。その夫が生存中は、その夫は律法によって妻と結ばれており、妻は夫に結ばれております。しかし、夫が死んだら、その死んだ夫はもはや律法の下にはいません。死んだ夫がもはや律法の下にない、律法に縛られてはいないということは、その妻が夫に法的に結ばれておらず、自由に結婚できることから分かります。

 そのように、パウロがここで例証しているのは「死んだ者は律法の下にはいない」ということです。さて、なぜこのような話を始めたのでしょう。パウロは何を言いたいのでしょう。――まさに、これがキリスト者であるということなのだ、と言いたいのです。

 この教会の洗礼式において必ず読まれる聖書箇所があります。今日の朗読箇所の前に書かれている6章の御言葉です。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(6:4)。私たちのためにキリストは死なれました。私たちは死んでいません。しかし、バプテスマによって私たちはキリストに結ばれ、キリストの死にあずかるのです。そのようにして、私たちは一度死んだものとされるのです。キリストと共に葬られる。洗礼を受けるとはそういうことです。

 そして、キリストの死にあずかって一度死んだ者とされたのなら、死んだ者は、もはや律法の下にはいない。それが4節に書かれていることです。「ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。」

 そのように、私たちは律法の下にはいません。律法に対しては死んだ者となっています。しかし、それだけならば律法とは関係なく生きるというだけの話にしかなりません。「律法に縛られることはありません。何をやっても自由です。生きたいように生きましょう。もはや律法の下にはいないのですから」ということになるのでしょう。これを無律法主義と言います。

 もちろん、パウロが言いたいのはそのようなことではありません。大事な続きがあるのです。もう一度4節全体をお読みします。「ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです」。

 「律法に対して死んだのは、キリストのものとなるためなのだ」と言うのです。ここには、先ほど例証として用いられた結婚の話が、もう一度ひとひねりした形で用いられています。つまり、死んで「律法」という結婚相手と縁が切れたのは、いわばキリストと結婚するためだったのだ、とパウロは言うのです。そのようにしてキリストと結婚し、キリストのものとして生きることによって、神に仕え、神に対して実を結ぶようになる。それが私たちに与えられている信仰生活なのです。


“霊”に従う新しい生き方へ

 しかし、なぜ律法の下に生き、律法に従うことでは実を結ぶことにならないのでしょうか。続きをお読みします。「わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです」(5‐6節)。

 ここでは、律法の下にあって、律法に従って生きる生き方と、死者の中から復活させられたキリストのものとして生きる生き方とが対比されています。一方は「文字に従う古い生き方」(直訳すると『文字の古さにおいて』)と呼ばれています。もう一方は「“霊”に従う新しい生き方(直訳すると『“霊”の新しさにおいて』)と呼ばれています。同じ仕えるにしても、古い生き方をもって仕えるのと新しい生き方をもって仕える二通りがあることです。そして、4節によりますならば、神に対して実を結ぶのは後者だということになるのです。

 なぜ、律法に従う生き方が「文字に従う古い生き方」などと呼ばれているのでしょうか。その理解の鍵となるのは、その前に記されている5節です。パウロは「肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働いた」と言うのです。ただ「罪へ誘う欲情が働いた」というのではありません。「律法によって(律法を通して)五体の中に働いた」と言うのです。

 その詳しい内容は、今日の箇所の続きとして7章全体に書かれていますので各自お読みください。要するにこういうことです。「罪へと誘う欲情」は律法(戒め)の言葉によって力を弱めるか。罪の力は、戒めの言葉があれば、私たちの五体から手を引いてくれるのか。私たちが「これをしてはならない」「あれをしてはならない」という教えの中に身を置けば、罪の力から解放されるのか。――そうはならない!と聖書は言うのです。罪は戒めの言葉に出会って、かえって力を強めるのです。私たちが「むさぼるな」という掟を知り、むさぼりが罪であることを知れば、人の内からはむさぼりが消えるのか。いいえ、そうならないのです。ますますむさぼりの罪は力を増して私たちを支配してくるのです。

 罪の力に対して律法は無力なのだということを認めず、なお律法を遵守することによって神に従って生きようとすることを「文字に従う古い生き方」とパウロは呼ぶのです。律法は文字です。文字は、要求はしますが、私たちを助けてはくれないのです。文字は、私たちを潔める力もなければ、罪に打ち勝たせる力をも持たないのです。律法そのものは私たちを救い出してはくれないのです。律法の文字のもとにいくら身をおいても、成し遂げるのは自分です。文字は助けてくれませんから、百パーセント自分でやらなくてはなりません。自分の力で何とかしなくてはなりません。

 そこで一生懸命に戒めの言葉に従おうと頑張ることでしょう。しかし、文字に従う古い生き方をもって神に仕えようとしても、神に対する実を結ぶ者とはなれないのです。今日の箇所の後に書かれているのですが、そこに生じるのは、深刻な「意志と行為の分裂」なのです。聖書の言葉によるならば、「善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです」(18節)という現実です。「意志」の負け戦です。

 さて、これは律法に厳格に生きようとしたユダヤ人たちだけの問題でしょうか。いいえ、そうではありません。今日のキリスト者においてもいくらでも起こり得ることなのです。

 もし今ここでなされていることが、「文字」としての聖書を学ぶことでしかないならば、それが生み出すのは「文字に従う古い生き方」でしかないでしょう。私たちが「信仰生活」と呼んでいるものが、何かを学び実践するだけのことならば、すなわち「死者の中から復活させられた方」との関わりなしでも成り立つことならば、それは「文字に従う古い生き方」でしかありません。自らを打ち叩き、力を振り絞って聖書の戒めに生きようとしながらも、無力な自分に失望落胆し、疲れ果ててしまうか、あるいは外面だけを一生懸命に繕ってキリスト者らしく生きようとするか・・・いずれにしてもそこで味わわれるのは負け戦の惨めさでしかありません。

 救いをもたらすのは文字ではなく、律法ではなく、死者の中から復活させられた方、生けるキリストなのです。その御方のものとして、その御方の体の一部として、その御方に結ばれて生きることは霊的な出来事なのであって、それは“霊”すなわち聖霊のみがなし得ることなのです。すなわち神のみがなし得ることなのです。だから、私たちは神に祈るのです。神を礼拝するのです。

 こうして礼拝堂においてであれ、それぞれの自宅であれ、日曜日に行われているのは聖書の勉強会ではありません。私たちは共に礼拝しているのです。共に祈っているのです。日々の生活においても、私たちは生けるキリストと結ばれて生きているのです。それは私たちが神に対して真に実を結ぶようになるためです。それこそが私たちに与えられている「“霊”に従う新しい生き方」です。

(祈り)

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