2020年9月13日日曜日

「神の御心に適う願い事」

ヨハネの手紙一 5:13-17

御心が行われますように

 イエス様は「天にまします我らの父よ」という呼びかけで始まる「主の祈り」を教えてくださいました。その中に「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」という祈りの言葉があります。「糧」というものは、生きていく上で必要なもの、生活していく上で必要なものの代表であると言えます。ですから、例えば宗教改革者マルティン・ルターなどは、この「糧」という言葉が及ぶ範囲は非常に広いということを書いています。「日用のかてとは何であるか」。彼はこう答えます。「食物、飲み物、着物、履き物、家、屋敷、田畑、家畜、金銭、財産、信仰ある夫婦、信仰ある子供、信仰ある下僕、信仰のある忠実な支配者、よい政府、よい気候、平和、健康、教育、名誉、親友、真実な隣人などのごとく、身体の栄養や必需品に属する一切を含んでいる」(「小教理問答」より)。そうしますと、要するに、必要なものは全て神に求めたらよいのだ、ということでしょう。

 往々にして私たちの問題は神に間違ったものを求めすぎることではなくて、むしろそもそも神に求め無さすぎることにあるのです。この世の与えるものにしか目が向かない。人間が与えるものにしか目が向かない。自分の力で獲得できるものにしか目が向かない。そして、自分で獲得して生きてきたかのように思いあがってしまう。しかし、本当は神様から全てをいただきながら生きてきた、いや生かされてきたのです。私たちはへりくだって、神に願い求めるべきなのです。

 しかし、そのことを心に留めた上でなお、私たちは「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」という祈りの前に、このような祈りの言葉があることを忘れてはなりません。「御心の天になるごとく、地にもなさしめたまえ」。新共同訳ですと、「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」(マタイ6:10)。

 そのように、神に祈る私たちが、まず神の御心に関心を持つということは、極めて大事なことであると言えます。神様が何を望んでおられるのか。神様が何を願っておられるのか。そのことに全く無関心で、無頓着で、ただ自分の望んでいることが実現するかどうかにしか関心がないとするならば、それは神と人との関係としてはどう考えても健全ではありません。

 今日お読みした聖書箇所には、こう書かれていました。「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります」(14‐15節)。

 これを書いたヨハネにとっては、ただ祈りが聞き入れられるかどうか、かなえられるかどうかだけが重要なのではないのです。これは神の御心に関心を向けて生きてきた人の言葉です。明らかに神の御心が実現することを願ってきた人の言葉です。そうあってこそ、祈りについても確信が持てるのでしょう。彼は「わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります」とさえ言うことができる。たとえ実現することが将来であっても、もう既に聞き入れられているのだ、という安心の中で祈り続けることができるのです。


罪を犯している兄弟を見たら

 さて、そのような御心に適う願い求めの一例が16節に挙げられております。いや、一例というよりも、代表と言ってよいかもしれません。こう書かれております。「死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい」(16節)。

 ここに「死に至らない罪」という言葉が出て来ます。後には「死に至る罪」という言葉が出て来ます。そのことについては後で触れるとしまして、まずここで考えなくてはならないのは、とにかく「罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい」と書かれていることです。

 実際、どうでしょう。私たちが御心に適った「祈り」とか「願い」ということを考える時に、真っ先にこのことを考えますでしょうか。これを書いているヨハネは、「御心に適った神への願い求め」ということを話し出すならば、真っ先にこのことが出て来る、そういう人だったということです。その後には、「死に至る罪があります。これについては、神に願うようにとは言いません」(16節)と書かれているので、人を切り捨てる冷たい人であるかのような印象を持つかもしれませんが、そうではないのです。ヨハネにとって、御心に適った祈りとは、まず罪を犯す誰かのために執り成し祈ることだったのです。

 「罪を犯している兄弟を見たら」というのは、実際に誰かが神に背くことを行っているのを目にした場合です。その時にどうするのか、という話です。私たちはどうするでしょう。そのような誰かの背きが、私たちに害を及ぼすこともあるでしょうし、あるいは他の誰かを苦しめている現実を目にすることもあるでしょう。そのような事実を目にするならどうしますか。その人を裁きますか。断罪しますか。自分に降りかかってくるならば、反射的にそうしてしまうかもしれません。

 しかし、そこでまず為すべきことは、神に代わって裁くことではなくて、神に願うことだ、というのです。その人が災いに遭うことを求めるのではなく、裁かれて滅びることを求めるのではなく、その人が悔い改めて赦しを得、命を得ることを願うことなのです。そうするならば、「神はその人に命をお与えになります」というのです。つまりそれは神の御心に適う願いだということです。神は人を滅ぼすことを願ってはおられない。人が永遠の命に生きるようになることを願っておられるのです。その神の願いを、私たちもまた共有することを神は願っておられるのでしょう。

 私たちが願い、神がそれを実現する。そのような形において、罪を犯した人が命を得ることを神は望んでおられる。なぜなら、それこそまさに主が愛してくださったように互いに愛し合うという交わりの実現に他ならないからです。互いに愛し合うということは、互いに赦し合い、互いに罪を執り成し合うとことと無関係ではないのです。私たちが互いに執り成しあうことにおいて、罪が死に至るものでなくなる。これが「死に至らない罪」です。


死に至る罪については

 しかし、もう一方で「死に至る罪があります」とヨハネは語ります。それは明らかに「もはや赦されることのない罪」ということであり、「滅びに至る罪」ということです。このように書かれていますと、私たちはどうしても「死に至る罪とは何だろう」と考えてしまうわけでしょう。実際、聖書の注解書を開きますと、この「死に至る罪」について様々な説明がなされているものです。

 しかし、よくよく考えてみるならば、「死に至る罪とは何だろう」と考えるということは、要するに「死に至らない罪」というのが標準で、「死に至る罪」というのは、何か特別な悪いことであるかのように考えていることではありませんか。しかし、そうなのでしょうか。「死に至らない罪」が標準なのでしょうか。実は聖書はそう言っていないのです。本来すべての罪は「死に至る罪」なのです。神が正しく裁かれるならば、すべての罪は滅びに値する罪であるはずなのです。パウロが「罪が支払う報酬は死です」(ローマ6:23)と語っているとおりです。

 それにもかかわらず私たちの罪が赦されて命を得られるのは、ひとえにイエス・キリストによる罪の贖いのゆえなのです。「死に至らない罪」があり得るのは、イエス・キリストの十字架のゆえなのです。私たちは罪の赦しを得られることを、当たり前のことのように思ってはならないのです。「悔い改めたのなら赦されて当たり前だろう」などと思ってはならないのです。キリストが苦しみを受けられたことによって、初めて私たちの罪の赦しがあり得るのです。ですから、先ほどのパウロの言葉はこう続くのです。「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」

 「主キリスト・イエスによる永遠の命」は「神の賜物」だと言われています。それは「プレゼント」なのです。そこでこんなことを考えてみてください。AさんがBさんにプレゼントをあげたとします。Bさんは確かにプレゼントを受け取りました。しかし、BさんがAさんの前でそのプレゼントを投げ捨てたとします。その時に、あなたはAさんに、「Bさんにプレゼントあげてください」とお願いしますか。それを当然のことのように願えますか。願えないでしょう。ここでヨハネが言っているのは、そのような話なのです。

 実際にこの手紙が書かれた時代に、イエス・キリストの福音を捨てて背教した人たちがいたのです。あるいはキリストの十字架を捨てて異端に行ってしまった人たちがいたのです。キリストの十字架を捨て、キリストの福音を投げ捨ててしまうなら、罪は罪としてそのまま裁かれるしかありません。そこにはもはや赦しはありません。それをヨハネは「死に至る罪」と呼んでいるのです。そして、「これについては、神に願うようにとは言いません」とまで語るのです。

 それはもちろん、罪が死に至らないことの恵みがいかに大きいかを知っているからです。神の賜物、神のプレゼントがいかに尊いものであるかを知っているからです。それは神の子が血を流し、命を注ぎだして与えてくださったとてつもなく高価な賜物であることを知っているからなのです。それをヨハネは「永遠の命」と呼んでいるのです。

 「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです」という言葉から本日の朗読は始まりました。そのような大きな恵みをいただいているのです。神によって赦された者として生きる恵み、神との交わりに入れられ、永遠の命を既に与えられた者として生きる恵みにあずかっているのです。そのような者として、神に祈りながら生きる生活も与えられているのです。

 だからこそ、私たちは互いに裁き合うのではなく、互いのために神の赦しを求めて祈るのです。そのために祈りを用いるのです。その祈りは必ず聞き届けられるのです。必ず聞き届けられるのです。なぜなら、それは神の願いでもあり、神の御心に適った祈りであるからです。

(祈り)


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