2020年10月4日日曜日

「すべてのものは神から出て神に向かう」

 ローマの信徒への手紙 11:33-36


 今日の第二朗読は、「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」(33節)という言葉から始まっていました。そして、「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン」という賛美で終わります。今日の箇所を読んでいますと、そこに深いへりくだりをもって真に神を神として畏れ敬う礼拝者の姿が見えてまいります。そこに見えてくる姿と、今ここにいる私たちの姿は重なるのか。あるいは全く重ならないのか。そのことを改めて考えざるを得なくなる。そんな聖書箇所です。


ああ、なんと深いことか

 「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか」(33節a)。このような手紙は口述筆記で書かれていますから、実際に大きな声で「ああ!」と叫んでいたのだと思います。「神の富」すなわち、「神の豊かさ」について、パウロは初めて考えたわけではないでしょう。また「神の知恵」についても「神の知識」についても、初めて考えたわけではないでしょう。それらは聖書が繰り返し語っていることですから。しかし、彼はここで改めて神の富と知恵と知識の深さを思って感嘆の声を上げているのです。

 それはなぜなのか。今日の箇所の直前には次のように書かれているのです。「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです」(32節)。パウロが今、目を向けているのは、すべての人に向けられた神の憐れみなのです。すべての人を憐れむために、神がしていることがある。言い換えるならば、すべての人を救おうとして、神がしていることがある。そのために神御自身がこの歴史のただ中においてなさっていることがある。パウロが目を向けているのはそのことなのです。

 そのように「すべての人を憐れむため」に、神はどうされたのでしょうか。もう一度お読みします。「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです」。とても不思議な言葉だと思いませんか。その内容について今日は触れません。この手紙の9章から11章までを後でじっくりとお読みください。しかし、それが何を意味するかはさておき、はっきりしていることが一つあります。「すべての人を不従順の状態に閉じ込める」という言葉は「神の憐れみ」と単純に結び着かないということです。

 「すべての人を不従順の状態に閉じ込める」という言葉は、むしろ「神の憐れみ」とは真逆に聞こえます。「神の救い」とは正反対の行為に聞こえます。しかし、それが何であれ、人間の目から見たら救いとは真逆に見えることが、実は「すべての人を憐れむためだった」とパウロは言うのです。そのことをパウロは知ったのです。そこでパウロは「ああ、なんと深いことか!」と叫ばずにはいられなかったのです。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか」と。

 すべての人を憐れむために、すべての人を救うために、その計り知れない豊かさを用いて、底知れない知恵を尽くして、その限りない知識を用いて、神は動いておられるのです。また、この世界を動かしておられるのです。しかも、人間の目から見たら憐れみとは真逆に見える出来事さえも用いて、すべての人を憐れもうとしていてくださるのです。

 実際、神が知恵を尽くして動いていてくださったからこそ、私たちが今ここにいるのでしょう。神がそのような神であるからこそ、憐れみを受けた者として、救いに招かれた者として、ここにいるのでしょう。私たちが憐れんでくださいと言う前に、私たちが救ってくださいと言う前に、限りなく豊かな神様が、知恵を尽くして、計り知れない知識を用いて、私たちを憐れむために動いていてくださったのです。そして、今もそのように憐れもうとしていてくださるのです。


誰が究め尽くせよう

 もちろん、その知恵も知識も私たちにとってはあまりにも深いのです。だから、パウロはこう続けるのです。「だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」(33節b)。「定め」とは「判断」のことです。それは「究め尽くし難い」と言っているのです。ここで用いられているのは「底まで計れない」という意味の言葉です。あまりに深くて底まで計れない。ですから神様が何をどう判断しておられるのか私たちに分らないとしても、それは当然のことなのです。

 また神の道は理解し尽くせない。神には神の道があるのです。しかし、それは私たちの道とは異なるのです。イザヤ書にこんな言葉があります。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている」(イザヤ55:8‐9)。

 しかし、だからこそ、神の富、神の知恵、神の知識を前にして人間はへりくだって、真に神を神として畏れ敬い、神を「信じる」ということが大事なのです。私たちには分からない。あまりにも深いから。だからこそ信じるのです。神がすべての人を憐れもうとしていてくださることを、畏れをもって信じるのです。そして、神をたたえるのです。神を礼拝するのです。


誰が主の相談相手であったか

 しかし、現実の私たちの生活を振り返る時に、神の知恵、神の知識への畏敬がいかに失われているかということも思わされます。まるで私たちの方が知恵ある者であるかのように、私たちの方が知るべきことを知っている者であるかのように振る舞ってしまう。だからこそ、続けて旧約聖書を引用して語るパウロの言葉は大きな意味を持っていると言えます。「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか」(34‐35節)。

 「相談相手」とは「助言者」とも訳せます。確かにいつの間にか助言者のように振る舞っていることがある。神様に助言したくなるのです。「神様、あなたのしていることはおかしい。あなたのしていることは間違っている。なぜこんなことをなさるのですか」と。何が最善であるかを私たちの方が知っているかのように助言したくなる。しかし、知らないのは、本当は私たちの方なのです。「いったいだれが主の心を知っていたであろうか」。そうです、私たちはすべての人を憐れもうとしておられる主の心を知ることなく、「助言者」として主に向かってしまうのです。

 あるいは、助言ではなく取引を始めようとするかもしれません。私たちが望ましいと思える結果を引き出すために、何かを差し出そうとするのです。私はこのようにしますから、神様はわたしが願っているとおりにしてください、と。しかし、聖書は言うのです。「だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか」(35節)。

 実は、新共同訳では若干言葉が異なりますが、これはヨブ記41章3節の引用なのです。そして、その言葉は次のように続くのです。「天の下にあるすべてのものはわたしのものだ」。そう主は言われるのです。私たちが何かを主に差し出したとしても、それはもともと神のものなのです。ならば、私たちは神と取引をする者としてではなく、ただ神をたたえ、礼拝する者として御前に立つべきなのでしょう。

 私たちは神に助言する者としてではなく、神に何か差し出して取引をする者としてでもなく、ただ神をたたえる者として集められているのです。主の日の礼拝に招かれているとはそういうことです。私たちが何をするまでもなく、何かを差し出すまでもなく、既に圧倒的な神の憐れみのもとにあるのです。

 その事実を、パウロはイエス・キリストの内に見出したのです。神は御子を通して御自身の憐れみを現してくださいました。その御方は、私たちを救うために独り子さえ惜しまず与えてくださった神なのです。その神がその計り知れない豊かさを用いて、底知れない知恵を尽くして、その限りない知識を用いて、すべての人を救うために動いてくださった。そして、今も動いておられます。この世界を動かしておられます。人間の目から見たら憐れみとは真逆に見える出来事さえも用いて、すべての人を憐れもうとしていてくださる。その事実を、イエス・キリストによって知ったのです。


ただ神を礼拝する者として

 それゆえに、最終的に彼はこう言って神をたたえるのです。「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン」(36節)。これはギリシアの神秘思想の言葉であったものをパウロが拝借したものです。しかし、その言葉をもって、パウロは既に述べられた神の憐れみについて、神の救いについて語っているのです。

 すべては神から出ているのです。人間が助言したわけでも、人間が何かを差し出したことに対する報酬でもありません。人間が憐れんでくださいと願ったからですらありません。神の計り知れない富と知恵と知識から既に神の憐れみの行動は始まっているのです。

 そして、すべては神に向かっているのです。最終的に神から遠ざけられ退けられるならば、そこには救いはありません。しかし、そうではないのです。すべては神に向かっているのです。言い換えるならば、神は憐れみによって、神の救いによって、すべてを神へと向かわせておられるのです。私たちの目にどう映ろうが、すべては神に向い、救いの完成へと向かっているのです。

 それでは、始まりと終わりの間はどうなのか。「神によって保たれ」と書かれています。これは意訳ですが、意味を良く捉えています。始まりと終わりの間も神によるのです。神によって保たれているのです。ならばはっきりしていることは、人間はへりくだらなくてはならない、ということです。本当にへりくだらなくてはならない。その具体的な姿は神を礼拝するということです。そこから、神の憐みに応答する生活が生まれてくるのです。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか」。「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン」。


(祈り)


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