ペトロの手紙一 2:11‐17
仮住まいの身なのですから
今日の箇所には「悪人呼ばわり」(12節)という言葉が出てきます。当時のキリスト者が、人々から「悪人呼ばわり」されていたという事情が伺えます。具体的にどのようなことを言われていたのかは分かりませんが、まだ国家レベルの迫害が始まる以前から、様々な謂われのない誹謗中傷を受けていたのでしょう。15節に書かれている「愚かな者たちの無知な発言」も同じです。これはもう少し広く、キリスト者や教会に対する誹謗中傷だけでなく、キリスト御自身やキリストの父なる神に対する冒涜的な暴言を含むものと考えられます。そのような言葉を投げかけられることが少なからずあったということでしょう。
戦時中、クリスチャンホームで育ったある姉妹が、「ヤソ、ヤソ」と言われてよく虐められたという話を聞いたことがあります。ある程度信仰暦の長い方にはそのような経験をされた方も少なくないかもしれません。今日でも、家族から教会に行くことを反対されたり、あるいはそこまでではなくとも、キリスト教信仰について悪しざまに言われたりすることは、起こり得ることなのでしょう。
それがいつの時代であれ、いずれにせよここで明らかなことは、信仰の故に不都合なことや困難が生じたり、嫌な思いをしたりすることがあったとしても、決して驚くには価しないということです。それはキリスト者が初めから経験してきたことなのです。それはある意味では当然のことなのでしょう。キリストはこの世において十字架につけられたのです。そのような世界に私たちは生きているのです。そのような世界において、十字架につけられたキリストを信じて、主とあがめて、その御方に従って生きようとしているのですから、困難が生じたとしても不思議ではない。信仰を持って生きるとはそういうことです。
そのような信仰者のこの世における生活を、聖書は「仮住まい」と表現しています。11節に「いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから」と書かれている。確かにそうです。私たちは仮住まいの身です。この世に永遠に留まるわけではありません。この世は私たちの最終的な目的地ではありません。しかし、ペトロがこのことを語るのは、「この世の生活は仮住まいであり、限られた時なのだから困難があっても忍耐しなさい」という話をするためではありません。そうではなく、仮住まいの者が、仮住まいであるゆえに、どう生きるのかという話をするのです。
仮住まいでなくて、この世に永遠に属する者であるならば、この世において何を獲得するかということが大きな意味を持つのでしょう。しかし、もし旅人であり仮住まいのものであるならば、やがては去っていくのですから、仮住まいの時をどう生きるのかということが重要になるのでしょう。この世における様々な出会いの中で、様々な関わりの中で、旅人として仮住まいしているこの限られた日々を、どのように生きるかが重要になってくる。そこで具体的に心に留めるべきことがあるのです。それが今日お読みした箇所に書かれている内容です。
立派に生活しなさい
旅人として仮住まいしている者として、心に留めるべきことは何か。まず消極的な表現としては、「避けなさい」ということです。「魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい」(11節)と。この「肉」というのは肉体のことではありません。人間の罪深い性質のことです。その「肉の欲」がどのような形で現れてくるのかについては、パウロがガラテヤの信徒に宛てた手紙の中で次のように書き記しています。「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです」(ガラテヤ5:19‐21)。
これが「肉の業」です。このようなことを行う肉の欲するままに生きてはならないということです。肉は救われた魂(1:9)に戦いを挑んできている敵なのです。その敵と仲良くしてはならないのです。避けて遠ざけなくてはならないのです。キリスト者として謂われのない中傷を受けるのなら、それはそれで良いのです。しかし、肉に従って生きて「謂われのある中傷」を受けるようであってはならないということでしょう。
これはより積極的に表現をするならば、「立派に生活しなさい」(12節)となります。この「立派に生活すること」あるいは「立派な行い」というのは、信仰から生じる行いのことです。キリストを信じ、キリストを愛し、キリストとの生き生きとした交わりから生まれる行いのことです。すなわち源が神であるということです。そうでなければ人々はその人を称賛するようにはなっても、「神をあがめるように」はならないでしょう。「あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります」とペトロは言うのです。
そこには「よく見て」と書かれています。これは「観察する」という意味の言葉です。しかも、継続的に観察しているという表現になっているのです。人々は、キリストについて語る言葉、救いについて語る言葉を聞いてくれないかもしれません。しかし、キリストを信じる者の生活を見てはくれます。観察してくれるでしょう。そこにおいては、言葉よりも生きる姿そのものが雄弁に語ります。身近な人々の観察の前では、見せかけは通用しないものです。家族の中では特にそうでしょう。だから本当に信仰から来ていること、神との交わりから来ていること、神を礼拝し、神を畏れ敬う生活から来ていることが重要なのです。
主のために
13節以下には、より具体的に「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい。善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです」(13‐15節)と書かれています。そのように語っているのはペトロだけでなく、既にパウロもローマの信徒への手紙の中で語っていることです(ローマ13:1以下)。
どうしてこのようなことが語られなくてはならないのでしょうか。それは宗教的熱心あるいは熱狂主義というものが反社会的な行動を生み出すことがあり得るからです。特にその宗教的熱心が「怒り」と結びついた時には往々にしてそのようなことが起こります。実際、聖書にも出てくる「熱心党」と呼ばれるユダヤ教のセクトはその道を行ったのです。戦いのために武器を取った。そのような事例は、今日においても、いくらでも挙げることができるでしょう。
そのような方向に進んではならないとペトロは言っているのです。信仰のゆえに誹謗中傷されるなら、あるいはキリスト御自身が冒涜されるなら、その発言を封じるために必要なのは暴力でも議論でもないのです。そうではなく、善を行うことだ、とペトロは言うのです。この「善」もまた、当然のことながら信仰から生じる善き行動を意味するのでしょう。ですから「主のために」と書かれているのです。「主のために」あえて暴力を選ばない、あえて論争を選ばない。人から傷つけられても、あえて人を傷つけることを選ばない。そうではなくて愛することを選ぶ時、人々はそこに「主のために」生きている信仰者の姿を見ることになるのです。
自由な人として
そして、さらにペトロは言います。「自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい」(16節)。パウロもその手紙の中でこう言っています。「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」(ガラテヤ5:13)。
キリスト者は律法のもとに生きてはいません。キリスト者の生活は戒律に支配された生活ではありません。「このことは禁じられているから、わたしはしない」という生き方はしません。「このことは禁じられていないから、やっていいのだ」という考え方もしません。そうではなくて、「私を愛していてくださる神は何を望んでおられるのだろうか」と考えるのです。「神の僕として行動しなさい」とはそういうことです。
本当の自由とは、肉に従う自由ではありません。それでは罪の奴隷になってしまいます。そうではなく、神の僕として仕えることのできる自由です。時には自分の権利を放棄することもできる自由、あえて仕えることもできる自由、愛することのできる自由です。「すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい」(17節)と書かれています。先に述べた、制度に従うこともそうですが、「そうせざるを得ないから」と言って従うのは自由人の姿ではありません。そうではなくて、神がお望みならば喜んでそうします、というのが本当の自由な人の姿です。
それは信仰から生じる自由です。神を礼拝し、神を畏れ敬う生活から生まれる自由です。それゆえに、私たちの生き方を省みるとするならば、まず、私たちと神との関係を省みなくてはならないのです。すべては神を礼拝し、神を畏れ敬う生活から生まれるのです。
今、私たちは毎週、礼拝のために礼拝堂に集まることはできません。ならば、ここに集まることのできない主の日を私たちがどう過ごしているかが重要になるのです。そして、さらに言うならば、主の日から主の日へと向かう、一日一日を、御言葉と共に歩んでいるかが重要になるのです。私たちは旅人である仮住まいの者であり、この世に置かれているのは、まことに限られた日々でありますから。
(祈り)