2020年10月11日日曜日

「テント住まいの人生」

コリントの信徒への手紙二 5:1-10


地上の幕屋が滅びても

 「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです」(1節)。そう書かれていました。要するに、私たちは死をもって終わる人生を生きているのではない、ということです。そのことが、ここで「住まい」を喩えとして、また「着物」を喩えとして語られているのです。

 まず、この世に生きる私たちの体が「幕屋」すなわちテントに喩えられています。この体をもって生きるこの世の生活がテント住まいの生活に喩えられているのです。それは感覚的に良く分かります。テントは一時的な住まいです。長く使っていれば綻びてきます。私たちはこの体というテントが何百年ももたないことを知っています。綻びてきますから、修理しながら生活することになります。やがてはこのテントの役目も終わることを知っています。そして、テントを手放すときがくるのです。

 パウロはそのことについて着物をもって喩えます。私たちはこの体という着物を脱ぐ時が来るのです。脱いだら裸になってしまうわけでしょう。ならば、私たちは裸のままなのでしょうか。いいえ「それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません」(3節)と書かれています。別の着物が用意されているのです。既に1節において、別の着物について語られていたのです。ただし着物ではなく、そこでは住まいに喩えられていました。もう一度お読みします。「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです」(1節)。

 この世の体は「幕屋」すなわち「テント」です。しかし、神は「建物」を備えていてくださいます。「天にある永遠の住みか」と呼ばれています。それは永遠です。テントのように綻びない、弱らない。一時的なものでもありません。「永遠の住みか」です。それを「上に着るのだ」と言うのです。住まいと着物の比喩がミックスされているので少々奇妙ですが、言わんとしていることは理解できます。この世における生活をパウロはこう表現するのです。「わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています」(2節)。

 「この地上の幕屋にあって苦しみもだえている」と彼は言います。その比喩も、ある意味では感覚的に分かります。この体をもって生きることは、苦しいことです。それは弱さを負いながら、綻びを繕いながら生きる苦しみでもあるでしょう。あるいはパウロは迫害の中にありましたから、他者の罪によって苦しめられるという苦しみもあるでしょう。あるいは、別の手紙で「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです」(ローマ7:18)ということも書いています。この体をもって生きることの大きな苦しみは、思い通りにならないこの体における、自分の罪との戦いということでもあるでしょう。

 確かに、そのように私たちは「この地上の幕屋にあって苦しみもだえている」と言えます。しかし、ただ苦しみもだえているのではありません。「天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って」と書かれているのです。「願いつつ」の苦しみなのです。言い換えるならば希望を抱きつつの苦しみであるということです。やがてはその願いが現実となる時が来るのです。天から与えられる住みかを上に着る時が来るのです。それは最終的な救いの完成でもあります。すなわち罪と死から完全に解放された栄光の体を着せられるのです。そのように「天から与えられる住みかを上に着たいと切に願」いつつのテント住まい。それがこの世における私たちの生活だと聖書は言っているのです。


天には建物が備えられている

 さて、ここで「天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って」と書かれているのであって、「地上の幕屋を脱ぎ捨てたいと切に願って」と書かれてはいないことに注意してください。つまりパウロがここで語っていることの中心は「脱ぎ捨てること」ではなく、あくまでも「着ること」にあるのです。4節をご覧ください。「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです」(4節)。

 どうしてパウロがこういうことを言っているかというと、脱ぎ捨てることにこそ救いがあると教えていた異端の教師たちがいたからなのです。この肉体は魂の牢獄である。死はそこからの解放なのだ、と。そこで多くの人がこの世の人生には意味がないと考えたのです。ただ苦しいだけの獄中生活。ただ死ぬことにこそ希望がある、と。それはある意味では分からなくありません。絶えざる苦しみを負って生きているならば、そう思わざるを得ないでしょう。脱ぎ捨てることにこそ救いがある、と。

 しかし、同じように絶えざる苦しみを負っていたパウロは、そうは言わないのです。彼は脱ぎ捨てることではなく着ることを思って生きているのです。脱ぎ捨てたいものに目を向けて、脱ぎ捨てる時を待ちつつ今を生きるのと、着せられる完全なものに目を向けて、着せられる時を思いつつ今を生きるのでは、生きる意味合いが全く違ってくるのです。そのようにパウロは地上において苦しみながらも、天に備えられているものを思いながら、既に備えられているものを喜びながら生きていたのです。

 そして、パウロは言うのです。「わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です」(5節)。どのようにして「ふさわしい者としてくださった」のでしょう。この手紙を読んだコリントの信徒たちには言わずとも分かったはずです。それはキリストの十字架によってである、と。

 もともと「天にある永遠の住みか」は私たちにはふさわしくはないのです。神に背いて生きてきた私たちにふさわしいのは、地上の幕屋と共に滅びていくことなのでしょう。しかし、神はそのような私たちを憐れんで、キリストを与えてくださいました。罪の赦しを与えてくださいました。そして、死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうようにと、永遠の住みかを備えてくださったのです。「わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です」(5節)。そのとおりです。


ひたすら主に喜ばれる者でありたい

 しかし、その先を読みますと、パウロにとって本当に重要だったのは、その永遠の住みかを着ること自体ではなかったことが分かります。もっと大事ことがあるのです。それは、その着せられた永遠の体をもって、主と共にあることだったのです。6節をご覧ください。「それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます」(6‐8節)。

 この世のテント住まいで、パウロにとって一番辛いことは何だったのか。それは主から離れているということだったのです。いや、もちろん目に見えずとも、信仰において主と共にある。それはパウロも分かっているのです。しかし、そこにはまたテント住まいにおける限界がある。それもまた事実です。ですから「体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます」と言うのです。この体を離れることを望むのは、この世の苦しみから離れるためではないのです。主のもとに住むためなのです。そのように一番大事なのは、主と共にあることであり、主との交わりなのです。ですから一番の願いもまた、それは「主に喜ばれる者」であることなのだと彼は言うのです。「だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい」(9節)。

 私たちのテント住まいもまた、つまるところ、ここに向かっているのでしょう。「体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい」。ここにこそ、テント住まいをしているこの地上の人生の意味もまたあるのです。これは苦しいだけの牢獄生活ではないのです。これはただ脱ぎ捨てるまで仕方なく着ている体ではないのです。この世の生活は、この世の体は、主に喜ばれる者として生きるための生活であり、体なのです。確かに苦しみがあります。罪との戦いもあります。不当な仕打ちを耐え忍ばなくてはならないこともあるでしょう。しかし、そのようなこの世の人生こそ、主を愛し、主に喜ばれることを求めて生きる実践の場なのです。

 だからまた、主もまたそのような私たちの生活を、関心をもって見ていてくださるのです。私たちが地上におけるテント住まいの人生をどう生きるかは、主にとっての重要事項なのです。10節に書かれているのはそういうことです。「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです」(10節)。

 キリストの裁きの座の前に立つ。そのキリストは私たちの罪のために十字架にかかってくださった御方です。私たちの罪を赦し、私たちを信仰によって義としてくださった御方です。ですから、その裁きとは、私たちが救われるか滅びるかの裁きではありません。私たちの報いに関わる裁きです。

 主は私たちのこの地上の人生を、関心をもって見ていてくださる。だから「悪」はすべて主の目の前にあります。ですから、私たちは「どうせ赦されるのだから」と言って、主を侮るような生活をしてはならない。当たり前のことです。しかし、そこでは「悪」だけが裁かれるのではないのです。「善」もまた裁かれるのです。すなわち、報いを受けるということです。

 主の目に「善」とされること、それはもしかしたら、積極的な善行というよりは、ある場合にはただ主を信じて苦難を耐え忍ぶだけのことかもしれません。耐え忍びながら愛を示して仕えることかもしれません。それはこの世においては報われないかもしれない。この世において報われないことはいくらでもあるのでしょう。しかし、主が報いてくださるのです。すべては報われるのです。私たちは、この世において報われるかどうかを気にしないで、ただひたすら主に喜ばれることを考えていたらよいのです。それがこのテント住まいにおいて求められていることなのです。

(祈り)


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