ヨハネによる福音書 7:1‐24
今日の箇所にはイエスの弟たちが登場します。そして、続いてユダヤ人たちと共に群衆が登場してまいります。細かいことを言うならば群衆もまたユダヤ人には違いないのですが、この福音書において「ユダヤ人」と書かれていたら、ほとんどの場合、イエスを敵視していたユダヤの政治的・宗教的権力者たちのことを指しています。そして、その他大勢として「群衆」がいるのです。先の「ユダヤ人たち」を恐れながら生きている人たちです。
信じていなかった弟たち
まずイエスの弟たちから見ていきましょう。弟たちはここで初めて登場するのですが、この福音書は彼らについて「兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである」(5節)と説明しています。しかし、これはある意味で妙な話です。というのも、彼らは兄であるイエスに対して、公に行動すべきことを勧めているからです。彼らは言うのです。「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい」(3‐4節)。信じていなければ、普通は「自分を世にはっきり示しなさい」とは言わないでしょう。
弟たちがこのようなことを口にした背景には、恐らく「弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」(6:66)という事情があったものと思われます。人々はイエスの行う奇跡には関心を示したのです。特に、6章は五つのパンと二匹の魚によって男だけでも五千人はいたであろう大群衆を養ったというセンセーショナルな奇跡物語から始まっているのです。人々はパンを与えてくれるイエスを熱狂的に追い求めるのです。そのような人々の中に、イエスの弟子であることを自認する人たちも大勢いたのです。しかし、イエスが与えてくれるものは喜んでも、イエスの語る言葉は受け入れなかったのです。そして、先に引用したとおり、弟子たちの多くは離れていったのです。
そんな兄の活動は、弟たちから見るならば、まったく実りのないものと映ったに違いない。だからエルサレムの都に行くことを勧めたのです。ちょうど仮庵祭のために多くの人々が都に上ってくる時期でした。人々の前で力ある業を示す絶好の機会です。兄であるイエスが、もしその気になりさえするならば、都において支配的な立場に身を置くことになるでしょう。さらには王なるメシア、救い主として、ローマからの解放を実現してくれるとさえ思っていたのかも知れません。いずれにしても、兄イエスが多くの人々の支持を得、支配力を持つことは、彼らにとっても望ましいことであったに違いありません。だから言うのです。「こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい」。
しかし、それにもかかわらず、聖書は言うのです。「兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。」なぜでしょうか。イエスの弟たちの考えていることは、イエスのもとを離れた多くの人々と根本的にはなんら変わらなかったからです。彼らは目に見えるこの世のパンのことしか考えていないのです。イエス様の表現によるならば、それは「朽ちる食べ物」(6:27)なのです。ですからイエス様は言われるのです。「世はあなたがたを憎むことはできないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。」目に見えるこの世のものだけを追い求めているならば、世に憎まれることはないでしょう。この世と一緒になって同じものを求めているのですから、世に憎まれることはないでしょう。そのような弟たちについて聖書はこう言うのです。「兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである」。
公然と語ることのない群衆
次に群衆の姿を見てみましょう。12節以下に次のように書かれています。「群衆の間では、イエスのことがいろいろとささやかれていた。『良い人だ』と言う者もいれば、『いや、群衆を惑わしている』と言う者もいた。しかし、ユダヤ人たちを恐れて、イエスについて公然と語る者はいなかった」(12‐13節)。
彼らの中には「良い人だ」と言う人もいたのです。非常に好意的な人もいたのです。「いや、群衆を惑わしている」と言う者たちと議論もしていたのでしょう。しかし、好意的に見ていたとしても、結局はイエスとその御言葉は、彼らの生活とは何の関わりもありません。彼らの人生と何の関わりもありません。遠いところから、外から、上から眺めるようにして語っているに過ぎません。そのような仕方で「イエスとはいったい何者か」と語っていても、そこから信仰が生まれることはありません。
彼らが肯定的にせよ、否定的にせよ、そのような関わり方しかできなかったのは、彼らの内にあった恐れのゆえであったとも言えます。「しかし、ユダヤ人たちを恐れて、イエスについて公然と語る者はいなかった」と語られているとおりです。そこには9章で「ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである」(9:22)という事情がありました。だから彼らは「ユダヤ人たち」を恐れた。それは自分の生活になんらかの不都合が生じることを恐れたということでもあります。だから、不都合が生じないように、自分の生活、自分の人生とはかかわりないところまでに留めたのです。それ以上は深入りしない。それを聖書は「いろいろと《ささやかれていた》」と表現するのです。ささやいているだけならば、自分に不利益は生じない。しかし、そこに信仰も生まれません。
御心を行うことを願うなら
そして、最後にユダヤ人たちに目を向けましょう。彼らはイエスが神殿の境内に上って教えているのを聞きました。そしてこう言ったのです。「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」(15節)。つまり、彼らが受けて来たような専門教育を受けたわけでないのに、イエスが聖書を解き明かして語っているのを聞いて不思議に思ったのです。それはまた、イエスがどんなに聖書を語っても権威あるものとは認めない、という思いの裏返しでもあったと言えます。
それに対して、イエス様は言われるのであります。「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである」(16‐17節)。
ユダヤ人たちはイエスに敵対していました。それは、この福音書の5章にまで遡りますが、そもそもイエスが安息日に病人を癒したことから始まったのです。労働の禁じられている安息日に治療行為をした。いやそれだけでなく、癒された人に床を担いで歩くという「労働」をさせたことが彼らを怒らせました。それだけではありません。その後イエスが口にした言葉がさらに彼らを憤らせたのでした。イエスは神を「わたしの父」と呼んで、御自分を神と等しい者とされたからです。ゆえに彼らはイエスを憎んで殺そうとしたのです。
表面的に見るならば、彼らは神に従うことを大切にしているのです。律法を守ることを重んじているのです。しかし、彼らが本当に守りたかったのは何なのか。イエス様には見えているのです。それは彼らの権威だったのです。律法を教え、律法を守らせる側にいる彼らの宗教的な権威なのです。彼らの関心は、神の御心を行うことにはない!だから「この方の御心を行おうとする者は…分かるはずだ」と言うのです。しかし、御心を行うことに関心がないと言うならば、それは彼らだけではないのです。既に見てきたように、それはイエスの弟たちにしても、群衆にしても同じです。
では、ここにいる私たちはどうなのでしょう。――この福音書が書かれた頃の教会、迫害の中で、困難の中で、なおも集まって礼拝していた紀元一世紀の教会もまた、自らを問われたに違いありません。集まって「主の祈り」ささげてはいます。「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」と幾度となく祈ってきたはずです。しかし、本当に御心が地になることを求めているのか。そこに教会が用いられること、我が身が用いられることを、本当に求めているのか。――主は言われるのです。「この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである」。そして、神から出たものであることが分かるなら、どんなに困難であっても信仰に留まるはずでしょう。
忘れてはなりません。このことを語っておられるのは、自ら命を捧げて御心を行おうとしておられた方なのです。ただひたすら御自分を遣わした天の父の御心を行うことを求めて生きられた方なのです。「わたしの時はまだ来ていない」(6節)と主は言われました。イエス様は明確なひとつの「時」へと向かっておられました。それはこの世の支配者となる「時」でもなく、この世の栄光を勝ち取る「時」でもありませんでした。それは私たちの救いのために十字架にかかられ、命を捨てられるその「時」だったのです。イエス様は明確な神の御心が行われるその「時」へと向かっておられたのです。そのように御心を行うために生きられた方がいて、今の私たちがいるのです。
ここにいる私たちはどうなのでしょう。その御方を礼拝している私たちの心の中心にあるのは何なのでしょう。私たちは今、神を礼拝している者として、本来あるべきところに立ち帰りたいと思うのです。イエス様は「この方の御心を行おうとする者は…分かるはずである」と言われました。「御心を行っている者は」とは言っていません。「行おうとする者」すなわち「行うことを願う者」です。大事なのは、今、私たちの心の願いがどこに向いているかなのです。
(祈り)