2020年12月13日日曜日

「既に始まっていることがある」

マタイ11:2‐15

荒れ野で叫ぶ声
 11月8日の福音書朗読にも出てきましたが、今日の福音書朗読において再び洗礼者ヨハネが登場します。イエス・キリストに洗礼をさずけた人物です。先月読まれた箇所もあわせて見ておきましょう。3章1節から6節までをお読みします。

 「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。『荒れ野で叫ぶ者の声がする。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」』ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」(3:1‐6)。

 ヨハネが「悔い改めよ。天の国は近づいた」と呼びかけていたのには理由がありました。彼には確信があったのです。最終的な神の裁きが間もなく行われるという確信です。神が審判を下される終わりの日は差し迫っていると彼は信じていたのです。続きをお読みします。「ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。『蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。・・・・斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる』」(3:7‐10)。

 実際、ヨハネにとって、メシアの到来というのはそのような期待だったのです。ヨハネにとって来るべきメシアとは、第一に力ある王なのです。神の権威をもってこの世界に君臨し、この世の悪を正しく裁くことのできる王なのです。

 そのようなメシアの到来をヨハネがどのように思い描いていたかは、彼の描写から分かります。彼はこう言っているのです。「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」(3:11‐12)。

 彼が用いているのは脱穀のイメージです。「農夫が箕をもって麦を空中に放ると風がもみ殻を吹き分けます。そして麦は倉に入れられ、殻は焼き払われることになります。そのように、最終的な神の裁きもメシアを通して行われると言うのです。この関連で「聖霊と火による洗礼」も語られております。明らかに「火」とは裁きの象徴です。では、聖霊はどうでしょう。実は、「霊」と「風」とは同じ単語なのです。ですから、ヨハネが意図していたのは「聖なる風」ということです。そうしますと、脱穀のイメージと重なります。こちらももみ殻と麦を吹き分ける裁きの象徴であることが分かります。

 要するに、ヨハネはあくまでも、最後の裁きをなさる方としてのメシアを語っているのです。そして、そのヨハネが「この人こそ来るべきメシアだ」と信じていた人物こそ、あのナザレのイエスだったのです。

来るべき方はあなたですか
 やがて、ヨハネは捕らえられ獄中の人となりました。今日お読みした聖書箇所ではヨハネが牢の中にいることが書かれていましたでしょう。事の顛末は14章に記されております。簡単に言えば、領主ヘロデの罪を指摘し、糾弾したのです。領主ヘロデにも悔い改めを求めたのです。しかし、彼は投獄され、ヘロデは何もなかったかのように平和に生活をしていた。それはヨハネにとっては決して想定外のことではなかったでしょう。それがこの世の現実であるからこそ、メシアは来られるのです。この世は正しく裁かれなくてはならないのです。この世の悪の力によって投獄されたヨハネは、いよいよイエスへの期待を膨らませたに違いありません。自分が世の中から去った後、イエスはどのような行動を起こすのか。神の裁きの風はどのように吹くことになるのか、と。

 ところが、いつまで経っても、何一つ期待どおりのことは聞こえてこないのです。「ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた」(2節)と書かれていました。ヨハネは何を聞いたのでしょう。伝え聞くところによれば、イエスの周りにはいつでも悪霊に憑かれた人や病気で苦しむ人が集まっいて、彼らをいやしておられるらしい。それはまだしも、聞くところによれば、罪人や徴税人たちを集めては一緒に食事をしているらしい。徴税人というのは、いわばヨハネを投獄したヘロデ側の人間です。これはいったいどうしたことでしょう。

 それだけではありません。これも先月読まれた聖書箇所ですが、イエスは弟子たちに「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」と教えているのです。さらには、「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい」などと教えているらしい。挙句の果てには「天の父である神は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」というような教えを説いているとのこと。いったい麦と殻を吹き分ける風はどうしたのでしょう。殻を焼き払うはずの火はどこにあるのでしょう。仮に最終的な審判はまだ先のことだとしても、例えば旧約聖書に出て来るエリヤのように、天から火を下して見せるとか、最後の審判を垣間見させるような奇跡を起こして、神の裁きに心を向けさせることはできるのでしょう。しかし、イエスがそのようなことをしたという話は全く聞こえてこないのです。

 獄中にいるヨハネは揺らぎました。それが今日の福音書朗読で読まれた場面です。もう一度お読みします。「ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか』」(2‐3節)。

見聞きしていることを伝えよ

 その問いに対して、イエス様はこう答えられました。4節以下をご覧下さい。「イエスはお答えになった。『行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。』」(4‐6節)

 ヨハネはメシアの到来のために道を準備するために遣わされた人でした。ヨハネが「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣べ伝えたのは、メシアの道を準備するためでした。そして、彼は準備を終えて、社会から消えたのです。彼は獄中にいるのです。その彼に「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい」と主は言われたのです。ヨハネによって道が準備されたその先にいったい何が起こっているのか。彼らはまず、そこに起こっていることをよく見なくてはならない。よく聞かなくてはならないのです。

 イエス様の言葉の背景にはイザヤ書の預言の言葉があります。例えば「その日には、耳の聞こえない者が、書物に書かれている言葉をすら聞き取り、盲人の目は暗黒と闇を解かれ、見えるようになる。苦しんでいた人々は再び主にあって喜び祝い、貧しい人々はイスラエルの聖なる方のゆえに喜び躍る」(イザヤ29:18-19)。例えば「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる」(同35:5-6)。

 このような癒しの描写をもって何が語られているのでしょうか。たとえ今は苦しみの中にあったとしても、最終的に神の憐れみが目に見える形でこの世界に現れるということです。確かに、この世界は最終的に正しく裁かれなくてはならない。しかし、最終的な裁きの時はまた、最終的な救いの時でもあるのです。いずれにしても、神が神としてご自身を現されるということです。そして、最終的に現される神の愛と憐れみを、神の救いを、もうあなたたちは目にし始めているではないか。既に耳にしているではないか。そうイエス様は言っておられるのです。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい」。彼らはよく見なくてはならない。よく聞かなくてはならないのです。

 ヨハネは「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣べ伝えました。しかし、そもそも悔い改めとは何でしょう。神から罰せられないように、悪いことを改めて良い人間になることでしょうか。神の怒りを免れるために、悔いて改めることでしょうか。いいえ、悔い改めとは方向を変えることなのです。方向を変えて神のもとに立ち帰ることなのです。悔い改めとは神への復帰です。神を離れた生活の方向転換をし、神に立ち帰ることなのです。イエス様のたとえ話で言うならば、父のもとを離れて放蕩していた息子がボロボロの姿のまま父のもとに帰ってきたように、そのように神のもとに帰ってくることなのです。

 そして、神のもとに帰るのは、罰を免れるためではないのです。災いを免れるためではないのです。神の怒りを鎮めるためでもないのです。そうではなくて、まことに神を神として、神と共に生きるためなのです。神の愛の内を生きるためなのです。イエス・キリストはその意味において、来るべき方だったのです。神が自らを現されるために遣わされたメシアとして、来るべき方として来られたのです。ならばそこには既に始まっていることがあるのです。

 確かにこの世界は正しく裁かれるべき世界です。この世界を不義が支配しています。正義はねじ曲げられています。正しいヨハネが投獄されるようなことが今日においても起こります。不当な苦しみがある。理不尽な悲しみがある。暗闇が依然として覆っている世界です。しかし、まだ夜が明けていない暗闇の中に、既にメシアは来られたのです。ですから、既に始まっていることがあるのです。確かにあります。ここにも見ることができます。ここには神のもとに立ち帰って、礼拝をささげている人々がいる。ここには神の赦しがあり、私たちの内に働く神の回復の御業がある。私たちは既に神の憐れみに触れながら生活しているのです。その意味で既に天の御国を味わい始めているのです。そこにしっかりと目を向けて生きていきましょう。

(祈り)
 憐れみ深い天の父、
 この世界は、あなたは既に救い主を与えてくださった世界です。この人生は、あなたが既に救い主を与えてくださった人生です。あなたの良き業が、この世にも私たちの人生にも既に始まっていることを感謝いたします。その事実にしっかりと目を向けてこれからも信仰をもって歩んでいくことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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