2020年11月1日日曜日

「人生において決定的に重要な時とは」

テサロニケの信徒への手紙一 4:13‐18

神のラッパが鳴り響く時

 本日の第一朗読においては「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」(コヘレト3:1)と語られていました。「定められた時」。もちろんお定めになるのは神様です。

 何事にも神の定められた時がある。その中でも、特に、人間にとって決定的に重要な、ある神の定められた時がある。今日の第2朗読では、その決定的に重要な神の定められた時について語られていました。それは何か。「キリストの再臨」です。キリストが再び来られるその時です。私たちが使徒信条においてキリストについて「かしこより来たりて生ける者と死ねる者とを審きたまわん」と言い表している、その時です。

 テサロニケの信徒たちがどのようにキリストの再臨を信じていたかは、1章において次のように語られています。「すなわち、わたしたちがあなたがたのところでどのように迎えられたか、また、あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか、更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです」(1:9‐10)。

 キリストの再臨の時は、第一には神の最終的な裁きの時に他なりません。この罪と不正に満ちた世界を、神が最終的に正しく裁いてくださる。それが「来るべき怒り」と表現されています。悪が大きな力を持つ時に、それを誰も裁くことができなくなる。それがこの世の現実です。しかし、そのようなこの世のありさまが永遠に続くのではありません。神が最終的に正しく裁き、神が決着をつけられるのです。

 もちろん私たちも罪に満ちたこの世の一人として、罪ある人間の一人として、神の裁きを他人事にはできません。私たちの人生もまた、すべて神の御前にあります。私たちもまた神の裁きのもとにある。しかし、そこで「この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです」と聖書は語るのです。

 来るべきキリストは、かつて来られたキリストです。私たち罪人を招いてくださった方、そして私たちの救いのために十字架におかかりくださった御方です。その方が再び来られるのです。だからこそ、私たちはキリストを待ち望むことができる。その御方は私たちの救い主だからです。キリストに再びお会いする時、私たちは、罪の赦しが何であるかを、本当の意味で知ることになるのでしょう。救いが何であるかを知ることになるのでしょう。キリストの再臨の時、それは最終的な救いの時でもあるのです。

 その出来事がどのように起こるのか。パウロは次のように教えています。「すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります」(1テサロニケ4:16‐17)。

 そこでは「合図の号令」、「大天使の声」、「神のラッパの鳴り響く音」について語られています。それらによって表現されているのは圧倒的な《神の主権》です。「その時」は神が主権をもってお定めになり、一方的に実現するということです。そこには人間の都合や予定などが入る余地など、まったくないということです。「待ってください、まだです」という余地はないということです。私たちは個人の人生の終わりがそのようなものであることを知っています。「待ってください」が通用しない。同じことが、この世界全体にも言えるということです。


空中で主と出会うため

 そして、死者の復活について語られています。これについては後に触れます。まずは生きている間にキリストの再臨があった場合を考えてみましょう。その時には、「わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます」(17節)と書かれています。なぜ「空中」と表現されているのか。それは「地上ではない」ということです。つまりそこで人間に起こることは、この地上の人生の延長ではないということです。

 私たちのこの地上の歩みの延長にないことが起こる。それは私たちが聖書を理解する上でもとても大事なことです。例えば、この手紙の3章には次のようなパウロの祈りが記されています。「そして、わたしたちの主イエスが、御自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき、あなたがたの心を強め、わたしたちの父である神の御前で、聖なる、非のうちどころのない者としてくださるように、アーメン」(3:13)。今、私たちが地上で経験していることの延長において、「非のうちどころのない者となる」ということが実現すると思いますか。思えないでしょう。しかし、キリストの再臨における私たちは、単なる地上の歩みの延長にいるのではないのです。

 そのような「神の定められた時」が来るのです。その時について、イエス様ご自身は福音書の中でこう言っておられます。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存知である」(マルコ13:32)。ならば本来、私たちの人生における一瞬一瞬は、その時となる可能性と共にあるのです。いつかは分からないのですから。私たちは予定を立てます。しかし、そこにはいつでも「御心ならば」がついて回ります。明日のことを考えます。しかし、いつでも「御心ならば」が前提なのです。

 それゆえに、この再臨の信仰は重要です。なぜなら、これがないと、いつも昨日から今日へと引いた線の延長上に明日を考えるようになるからです。そして、実際、人間は通常そのように生きているのでしょう。そのことがしばしば諦めと倦怠をももたらします。昨日から今日の延長に明日があるのなら、諦めるしかないことはいくらでもあるからです。昨日も苦しかった。今日も苦しかった。その延長としてしか明日を見ることができなければ、明日も必ず苦しいに違いないと思うわけでしょう。そのように、苦しみもまた永遠に続くかのように思ってしまう。決定的な「その時」は、神によって定められていることを忘れているからです。


眠りについた人たちも

 さて、先にも触れたようにテサロニケの信徒たちはキリストの再臨を待ち望む人々でした。自分が生きている間にキリストは再び来られると信じていました。それはパウロも同じです(15節)。それがキリストの再臨を信じる本来のあり方です。しかし、そのように信じていた仲間の中に、再臨の前に死んでしまう者が起こってきました。それは大きな動揺を呼び起こしたようです。それゆえにパウロは次のように書き送ります。「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい」(13節)。

 「眠りについた人」はどのような状態にあるのか、死後の世界はどうなっているのかについて、聖書はほとんど何も語りません。パウロもそのことについてほとんど関心を向けません。大事なことはただ一つ。死んで終わりでない、ということです。だから「眠り」と表現しているのです。

 そして、終わりではないのですから、「主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません」ということも言えるのです。要するに、キリストの再臨のときに、生きていようが死んでいようが関係ないということです。いやむしろ死んだ人の方が先だ、とパウロは言っているのです。

 これは私たちが生きていく上で極めて重要な認識です。なぜなら、私たちは自分の人生を考える時にも、他の人の人生を考える時にも、「死」という「その時」を決定的に重要なこととして考えているからです。自分についても、他の人についても、「あと何年生きられるか」ということは小さなことではないでしょう。また「どのように死ぬか」ということも決して小さなことではないでしょう。若くして事故で亡くなることは、実に不幸なことと見なされます。事件に巻き込まれて亡くなったなら、不幸な人として語られるのでしょう。

 しかし、本当は、人間にとって決定的に重要な時は、「死の時」ではないのです。最初から申し上げていますように、人間にとって決定的に重要な時とは、キリスト再臨の時なのです。その時に生きていていようが、既に死んでいようが、大きな違いはないのです。本当の意味でキリストと相まみえることとなる「その時」こそが、私たちにとって最も重要な時なのです。私たちすべての人間存在は死に向かっているのではなく、神の定められた「その時」へと向かっているのです。

 それは神が定められる時です。人間はそれがいつであるかを知りません。先にも申しましたように、私たちの人生における一瞬一瞬が、その可能性と共にあるのです。ならば、その一瞬一瞬の「今」こそが、人生における最も重要な時であるとも言うことができるのでしょう。それゆえに、イエス様は繰り返し「目を覚ましていなさい」と言われたのです。キリストの再臨を信じる信仰は、「今」を大切にして生きることへと、私たちを向かわせるのです。

(祈り)


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