ヘブライの信徒への手紙 6:1‐12
前回のところでは、読者に対して「乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです」と語られていました。要するに、あなたがたは幼子だから固い食物を食べることはできない、と言っていたのです。しかし、今日の箇所を読みますと、「だからあなたがたにはまだまだ乳を与えることが必要だ」とは言っていません。そうではなくて、「キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう」と言っているのです。これを読みますと、先週も申し上げましたが、既に述べられたことは、いわば多分に挑発的な言葉であったことが分かります。読者に発奮して欲しいのです。そのままで満足していて欲しくないのです。成熟したいという願いを持って欲しいのです。固い食物を食べる必要性を知らずに乳を飲んでいて満足している人は、いつまで経っても乳を飲んでいることになるでしょう。そうあってはならないのです。
「キリストの教えの初歩を離れて」と書かれています。その「初歩」の例として、「死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々の洗礼についての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教え」が挙げられています。「死んだ行い」というのは、永遠の命の源なる神から自らを切り離してしまう行い、すなわち神に対する背きのことです。そのような行いを悔い改めること。生ける神に立ち返るということは観念的なことではありません。実際的なことです。「神への信仰」については特に言葉を加える必要はないでしょう。次に「種々の洗礼」と複数になっているのは、「洗礼(バプテスマ)」そのものは、必ずしもキリスト教会だけが行っていたのではないからです。異邦人がユダヤ教へと改宗する時に洗礼が行われました。またヨハネの授けたバプテスマがありました。そのような中において、教会において主の御名によって授けられる洗礼はいかなるものか。主イエスが聖霊によって授けるバプテスマとは何であるか。そのことについての教えが「種々の洗礼についての教え」です。手を置く儀式とは、聖霊を与えるものとして、また伝道者の任職として行われていたものです。そして続く「死者の復活」「永遠の審判」は終末に関する教えです。
どうでしょう。これらが「基本的な教え」と呼ばれ「キリストの教えの初歩」と呼ばれているものです。どれ一つ取っても、大変な内容を持つものでしょう。しかし、これらはキリスト者ならば当然弁えていなくてはならないものであり、これらについての教えは「乳」だと言うのです。そうしますと、私たちが「乳」として求めているものは、もしかしたら「乳」にもなっていないかもしれないのです。私たちの標準といかに違うかを思わずにはおれません。
それは教会の置かれた状況を考えても分かります。この手紙は試練に直面している教会に宛てて書かれたものであることは既に述べました。そこには様々な困難の中で、どのようにして信仰を保っていくかという死活問題があるのです。人が信仰を保っていこうとするときに、その土台として基本的な事柄が身についていることが必要なことは誰でも分かります。しかし、この著者に言わせるならば、それでも十分ではないのだ、と言うのです。「成熟を目指して進みましょう」と。
確かにそれは私たちの置かれている状況とは違います。しかし、どのようにして信仰を保っていくかという死活問題についてはある意味では変わらないのでしょう。その意味では、私たちには危機感が欠落しているとも言えます。私たちは本当に試練を耐え抜くことのできる信仰者なのだろうかと改めて自らに問わなくてはなりません。
実際それは決して小さなことではないのです。試練の中において信仰を捨てるということ、すなわち棄教するということがどういうことかを、この著者は極めて厳しい語り口で次のように語ります。「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです」(4‐6節)。
信仰者として、この言葉を読んで恐れを抱かない人はいないだろうと思います。もっとも、「再び悔い改めに立ち帰らせることはできない」のはあくまでも人間の側としてのことであって、人にはできなくても神にはできるということが留保されているとは言えます。しかし、それは神の恵みとしての留保なのであって、神が立ち帰らせてくださることを当然のこととすることはできません。やはり私たちは恐れなくてはならないのです。神を離れても、後で立ち帰ることができるなどと安易に考えてはならないのです。信仰を捨てても、また後で持つことができるなどと安易に考えてはならないのです。
もちろん、ここに書かれていることは、既に信仰を捨てた人々について、「彼らが立ち帰ることは不可能なのだ」と断罪するために書かれているのではありません。そうではなくて、あくまでもこれは信仰に立っている人々に対して書かれているのです。警告として語られているのであって、願いはもちろん、信仰に留まって欲しいということです。
ですからこの著者は、次のように語りかけています。「しかし、愛する人たち、こんなふうに話してはいても、わたしたちはあなたがたについて、もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています」(9節)。そして、神様がこれまでの信仰生活をちゃんと見ていてくださって決して忘れることはないのだと励ましているのです。「あなたがたの働き」、そして「聖なる者」すなわち他の信徒に対して示してきた愛、しかもそれが神の名のために行われてきたこと、すべて神様は覚えていてくださると言うのです。信仰の実りが必ずしも人の目に留まるわけではないし、また覚えられているわけではありません。また自分でも覚えていないことがあるかもしれません。しかし、神様は覚えていてくださる。なぜなら神様は不義な方ではないから。
先にこの著者は読者に対して、あなたがたは乳を飲んでいる幼子だと語りました。確かにそうだったのでしょう。しかし、そうであっても信仰者として生きてきたことは、神の御前において決して小さなことではないのです。それは私たちについても同じであろうと思います。このヘブライ人への手紙のスタンダードから言えば、私たちの状態は幼子以下かもしれません。しかし、それでもなお神様はその信仰生活に目を留め、心にかけ、覚えていてくださるのです。私たちは卑下する必要はないし、そのことよりも、「成熟を目指して進みましょう」という言葉をしっかりと受け止めたらよいのです。
8節に至までかなり厳しい辛辣なことを語ってきたこの著者の真意は次のように語られています。「わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです」(11‐12節)。
「怠け者」というところに用いられているのは、5:11の「鈍くなっている」と同じ言葉です。鈍くなったままでいてほしくない。むしろ信仰と忍耐によって約束されたものを受け継ぐ人たち、すなわち信仰の先達たちを見倣ってその後に続く者となって欲しいのです。その信仰の先達たちの代表として挙げられるのはアブラハムです。彼についてはこの直後に言及されていますし、また後に11章に登場します。私たちも知るとおり、アブラハムは人間としては完全な人と言うにほど遠い人でした。またその信仰は度々試練に遭い、振るわれました。しかし、彼は忍耐強く待って信仰を全うしたのです。そのようにわたしたちも最後まで希望を持ち続けることができるようにとこの著者は願っているのです。そのためにも、信仰の基本的なことがらはもとより、そこからさらに常に成熟を目指して進む必要があるのです。