ヘブライ人への手紙 6:13‐20
前回お読みしたところには次のように書かれていました。「わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです」(11‐12節)。ここで読者が見倣ってほしい人たちの中で、まず誰を念頭に置いているかが、今日お読みしたところに明らかにされています。それはアブラハムなのです。
しかし、今日の箇所において、著者がまずアブラハムの模範的な姿を提示しているかと言えば、そうではないのです。アブラハムがどれほど忍耐強かったか、信仰が深かったかということを語り出すのではなくて、まず、神様のことを語り出しているのです。特に神がアブラハムに対して「誓った」ということを取り上げているのです。「神は、アブラハムに約束をする際に、御自身より偉大な者にかけて誓えなかったので、御自身にかけて誓い、『わたしは必ずあなたを祝福し、あなたの子孫を大いに増やす』と言われました」(13‐14節)。その上で、初めて、「こうして、アブラハムは根気よく待って、約束のものを得たのです」と、アブラハムの忍耐のことに触れているのです。
神がアブラハムに対して誓われたように、「何かにかけて誓う」という行為は、ある意味では今日の私たちにとって馴染み深いものではないと言えるでしょう。しかし、この手紙の読者にとっては極めて身近なものだったのです。とにかくユダヤ人の世界においては、信用が問題となるところでは、頻繁に「何かにかけて誓う」という行為がなされたのです。今日で言うならば、判をついて契約書を交わすという感覚に近いかもしれません。それで信用問題については、ある意味でけりがつく。そのような類のものです。
しかし、人間ならまだしも、神様が「誓う」というのは、やはり何か変です。人間の世界では、誓いの効力を保証するために自分より偉大な者にかけて誓うのです。しかし、神様の場合、自分より偉大なものはありません。ですから、「自分にかけて誓う」という変なことになります。まさに、その変なことが実際に聖書に書かれているではないかと、この著者は指摘しているのです。それは後で見ますけれど、創世記の22章に実際に出てくるのです。
神様があえてそんな変なことをなさったのは何のためか。なぜそんな変なことが聖書に書かれているのか。それは次のように説明されています。「神は約束されたものを受け継ぐ人々に、御自分の計画が変わらないものであることを、いっそうはっきり示したいと考え、それを誓いによって保証なさったのです」(17節)。
それは一方において、「神の計画が変わってしまったのではないか」という状況があるということでしょう。言い換えるならば、神様は先に約束したことを勝手に変更してしまって約束を守らないかのように見えるということです。そのような状況の中で、なおも神様は「計画は変わっていないんだよ」と示そうとした。それがこの「神の誓い」という変な出来事だというのです。
神は「御自分の計画が変わらないものであることを、いっそうはっきりと示したい」と考えられた。――それは要するに「信じ抜いて欲しい」という神の心の現れでしょう。どんなに状況が約束の実現に反するように見えても、神が不真実に見えたとしても、信じて欲しいと神は願っている。それを示しているのが、この「神の誓い」なのです。私たちはその奇妙な記述に、そのような神の心を読み取らなくてはならないのです。
そして、実際アブラハムは、神が望んでいるように、そのように神を信じたのです。信じ抜いたのです。実際、この「神の誓い」が聖書のどこに書かれているかと言うと、先に申しましたように、それは創世記22章なのです。それは有名な、イサク奉献の物語が書かれているところです。
その内容はご存じでしょう。神様はアブラハムにこう言われたところから始まります。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい」(創世記22:2)。これは明らかに神様の当初の約束の言葉である「わたしはあなたを多くなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように」(同12:2)という約束に反するでしょう。また、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。…あなたの子孫はこのようになる」(同15:5)という約束の言葉に反するでしょう。イサクはたった一人の子なのであって、その子を殺したら、子孫はもはやあり得ないのですから。
彼がイサクを連れてモリヤの山を登って行った時、彼が見続けていたのは、約束に反する現実だったのです。神の不真実と見える現実だったのです。彼が刃物を振り上げた時、彼が目にしていたのは、神の不真実としか見えない現実だったのです。にもかかわらず、彼は神を信じ続けたのです。
この著者がまず念頭に置いているのは、このアブラハムなのです。このような人を「見倣う者となってほしいのです」と彼は言うのです。実際、「神の誓い」はこの出来事の直後に書かれています。信じ抜いたアブラハムに対して為された誓いです。ならば、それは単にアブラハムのためだけではないでしょう。その後の人々のためでもあるのです。それはこの手紙の読者のためでもあり、今日の私たちのためでもあるのです。
ですから、こう書かれています。「それは、目指す希望を持ち続けようとして世を逃れて来たわたしたちが、二つの不変の事柄によって力強く励まされるためです。この事柄に関して、神が偽ることはありえません」(18節)。そうです、「わたしたち」がこの二つの不変の事柄、すなわち神の約束と誓いによって励まされるためなのです。
その「わたしたち」ということについて、特に「目指す希望を持ち続けようとして世を逃れて来たわたしたち」と言われています。細かい話になりますが、実は、原文には「世を」という言葉はありません。ただ「逃れて来たわたしたち」と書かれているのです。何から逃れてきたのかということは書かれていません。ですから「世から逃れてきたのだ」という解釈が一つあって、それがこの訳です。しかし、その訳では、信仰を持つということは世捨て人になることであるかのように誤解される恐れがあります。
ということで、これを「世を逃れて来たわたしたち」ではないとする解釈があります。わたしは、それが正しいと思っています。確かに、彼らは迫害の恐怖に直面しています。世の人々が敵対してくるのです。しかし、人を滅ぼすのは「世」ではないのです。この手紙は、そうは言っていないのです。本当に恐ろしいのは「世」ではないのです。既に見てきましたでしょう。人は何によって滅びるのか。不信仰によってなのです。だから、本当に逃れなくてはならないのは、不信仰からなのです。そこから逃れて「目指す希望を持ち続けようとしているわたしたち」と言っているのです。その私たちを神は励まそうとしておられるのです。
なぜなら、その目指す希望、すなわち神の国の希望、神の安息にあずかる希望こそ、魂にとって頼りになる錨だからです(19節)。錨がなかったら流されていってしまうのです。滅びへと流されて行ってしまうのです。だから不信仰から逃れて、希望を保ち、錨をしっかりと降ろしていなくてはならないのです。
そしてもう一つのことが付け加えられています。この希望こそ、「至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです」(19節)と。至聖所の垂れ幕の内側に入って行くとは、言い換えるならば、神との交わりに入るということです。それは現在における神の交わりであると共に、最終的に完全な神との交わりに入るということをも含みます。その垂れ幕の内側に、既に先にキリストが入ってくださいました。そして、私たちのために大祭司として執り成していてくださいます。それは同じ交わりへと私たちも入るためなのです。だから「目指す希望を持ち続けようとしているわたしたち」であることが大事なのです。どんなに神は不真実であるかのように見える現実があったとしても、私たちは不信仰と絶望から逃れ、希望を持ち続けなくてはならないのです。あのアブラハムのように。そのような私たちを神は励ましていてくださいます。