ヘブライ人への手紙 4:1‐11
七日に一日巡ってくる安息日。ユダヤ人なら誰でもその由来を知っていたはずです。神が六日間で天地を完成し、七日目に安息されたという話です。創世記には、「天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった」(創世記2:1‐2)と書かれています。そこには決定的に重要なことが宣言されています。「天地万物は完成された」「神は御自分の仕事を完成された」と。今日の聖書箇所にも、このことが言及されていました。
なぜこのことが聖書に書かれていることがそれほど重要なのでしょうか。それは、現実にはそう見えないからです。神は「はなはだ良かった」と言われる。そして、「天地万物は完成された」と。しかし、この世界は、どう見ても良い世界として完成しているようには見えないのです。この世界には人間の悪が満ち溢れ、この世界は罪と死によって支配されている。完成どころか崩壊に向かっているとしか見えないのです。現にこのヘブライ人への手紙を読んでいる人たちは、この世界が良い世界として完成していないから、この世の悪と罪のゆえに苦しんでいるのです。
そうです、肉の目にはそのようにしか見えない。だからこそ、先ほどの聖書の宣言が重要なのです。神は御自分の仕事を完成された。それは信仰の目によってしか見えない事実です。神は既に完成して休んでおられる。そして、神が休んでおられるだけでなく、神の全き安息の内に、神は全被造物を招いておられる。
完全に神の御心が実現した神の世界、神の国。それは神の目から見るならば既に完成しているのです。神は完成した世界、全き安息を、いつか造ってくれるだろう、というのではないのです。既に出来上がっているのだと御言葉は宣言しているのです。
それはこの時間世界の中に生きている我々にはまだ見えていません。しかし、神は既に御業を完成しておられるのだから、やがて私たちも見ることになるのです。それが今日の箇所において語られていることです。「もっとも、神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていたのです」(3節)。今はただ、聖書が宣言するのを聞いているだけです。まだ見ていない。しかし、やがて見ることになるのです。ですから、それまでは、まだ見ていない事実を信じるのです。それが信仰です。
そのことを考えますと、実は、あのエジプトを導き出されたイスラエルの民は、ただカナンの地に至るとの約束を与えられていたのではないことが分かります。彼らは、神を礼拝する民となり、神との交わりに生きる民となって、やがて最終的に、まだ見ていない完全な神の安息にあずかることへと招かれていたのです。
しかし、彼らは現実の試練の中で、「生ける神から離れて」(3:12)しまいました。それゆえに、神は「彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない」(3:11)と宣言されたのです。つまり、彼らは約束の地に入れなかっただけではなく、神の約束された安息にあずかることができなかったということなのです。神に反抗し、心をかたくなにし、神を離れてしまうとは、そういうことなのです。
実際、ただカナンの地に入ることが目的であるならば、最初の人たちは入れなかったとしても、次の世代の人たちがヨシュアに率いられて約束の地に入ることができたのです。単にカナンの地に入ることが重要なら、それで終わりのはずなのです。しかし、実際に神は話をそれで終わりにしないで、後の時代にダビデの詩編を通して民に呼びかけたのです。
それが今日お読みした箇所で引用されていた詩編95編です。神を試み、神に反抗した人たちに対して、「彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない」と神が宣言されたことを歌っているのは、そのことを示して警告と招きの言葉を語るためでした。すなわち、神は再びこれを聞く人々にとっての「今日」という日について、こう呼びかけたのです。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、荒れ野で試練を受けたころ、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない」(3:7‐8)。
これが「神の安息にあずかる約束がまだ続いている」ということです。詩編95編がそのことを示しているのです。最初に神の安息へと招かれていた人々がそこから外れてしまったとしても、神の安息そのものが無くなったわけではありません。神の約束そのものが無効になったわけでもないのです。先にも言いましたように、神はこれから完成した世界を造られるのではないからです。既にそれは完成しているのです。だから招きは依然として有効なのです。この安息にあずかるはずの人々がまだ残っているのです。
それゆえに重要なことは、私たち自身がその約束に確実にあずかるということなのです。1節には次のように語られています。「だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう」(1節)。
「取り残されてしまったと思われる者」というのは、要するに「万一にも、はいりそこなう者」(口語訳)ということです。そのような人が出ないように気をつけるとは、どういうことでしょう。その後に、こう書かれています。「というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです」(2節)。
そうしますと、告げ知らされた福音の言葉が、役に立たないものとなってしまわないように気をつけるということが重要であるようです。言葉は信仰によって聞いた人と結びつけられなければ、無駄になってしまうのです。
聞いた言葉との関係については前にも語られていました。「だから、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます」(2:1)。これは「錨を降ろす」という意味の言葉であり、そうしないと漂流してしまうという意味だと以前申し上げました。聞いた言葉に錨をしっかりと降ろさなくてはならないのです。
その聞いた言葉、告げ知らされた福音の言葉とは、先に申し上げた最終的な安息に関わる言葉です。それは神の御業としては既に完成しているのですが、私たちはまだ見ていないものです。私たちは、ただ聞いているだけなのです。
そのもう一方において、私たちは現に今、見ていることがあります。この世の有り様です。それはしばしば私たちの信仰に挑戦してくるのです。神の善意はどこにも見られない、神が救ってくださるとは思えない、そういう現実があるのです。悪が最後の実権を握っているのであり、罪と死が最終的な勝利者であるかのように見えるのです。
ですから、その目に見える現実の方に錨を降ろしてしまうならば、私たちの内にもかつてのイスラエルの人々のように、神を試みる思い、神への反抗、不信の思い、不平や不満、つぶやきなどが起こってきてしまうのです。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった」と言ったあの人々のようにです。
しかし、私たちはそうなってはならないのです。見ていることにではなく、聞いていることにこそ、錨を降ろさなくてはならないのです。信仰によって、聞いた福音の言葉が自分自身と結びつけられなくてはならないのです。そうでないと、安息の約束は続いているにもかかわらず、そこに入りそこなってしまうことになりかねないからです。
ここを読みますと、イエス様が弟子たちとガリラヤ湖を渡った時の話が思い起こされます。イエス様は弟子たちに「湖の向こう岸に渡ろう」(ルカ8:22)と言われました。これが弟子たちの聞いた言葉です。主が「向こう岸に渡ろう」と言われたのですから、必ず向こう岸に着くのです。しかし、どうなりましたか。舟は嵐に遭いました。これが彼らの見ていることです。彼らは聞いたことと見ていることのどちらに錨を降ろしたのでしょうか。見ていることの方でした。彼らは沈むと思ったのです。ですから、寝ているイエス様を起こして言いました。「先生、先生、おぼれそうです」と。その時、主は風と荒波を叱って静め、彼らに言いました。「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と。そうです、主は私たちにも今、問うているのかもしれません。「あなたがたの信仰はどこにあるのか」。私たちは、見ていることと聞いていることの、どちらを信じるのでしょうか。