ヘブライ人への手紙 12:14‐29
先週お読みしたところでは、「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」(11節)と書かれていました。神様は私たちを子として取り扱い、必要な鍛錬を与えるのだというのです。そして、それは「義という平和に満ちた実を結ばせる」ための鍛錬なのです。
ここで語られている「平和」とは、単に争いがない状態を意味するのではなく、神様と共にあって、神と調和し命に満ち溢れている状態を意味するのだと申しました。そのような実を結ばせてくださるための鍛錬を神様は与えてくださるのです。そのように語った上で、今日の箇所では、「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい」と勧められているのです。
「すべての人との平和を追い求めなさい」。先に語った「平和」には、もちろん人と人とが愛し合って共に生きることも含まれています。人と人とが引き裂かれたままで、争い憎み合ったままで、神と調和して命に満ちあふれているなどということはあり得ないのですから。
隣人のことを忘れ、この世界のことを忘れ、ただ神との交わりの中に引き籠もって得られる平安。――それは神が与えようとしているシャーロームとは別物です。神様は、神と人とが和解し、神と人との間が平和であるだけでなく、人と人とが和解し、愛し合い、共に生きることを望んでおられるのです。そのような神と人、人と人との間に、神の命を満たそうとしているのです。そこにこそシャーロームがあるのです。
それゆえに「すべての人との平和を追い求めよ」と語られているのです。しかし、すぐに分かることは、これは追い求めて簡単に獲得できる類のものではないということです。この手紙の読者にはすぐに分かったと思います。「すべての人」には迫害する者も含まれているのだ、と。敵対し悪口雑言を言ったり中傷したりする人も含まれるのです。次から次へと苦しみをもたらす人も含まれるのです。主を信じるキリスト者の仲間の間ですら難しいのに、「《すべての人と》の平和を追い求めよ」という勧めをどう受け止めたらよいのでしょう。
しかし、それがどれほど難しくても、聖書の言うように平和を追い求めてこそ身に染みて分かることがあることは事実です。訓練が必要だ、ということです。父の鍛錬、義という平和に満ちた実を結ばせる父の鍛錬が、ぜったいに必要だということです。それなくして本当に身近な人との間にすら平和なんて実現できないわけですから。
平和を追い求めるならば、まずは自分自身が変えられなくてはならないのです。清められなくてはならないのです。ですから、「すべての人との平和を追い求めなさい」とだけ語られているのではなくて、「聖なる生活を追い求めなさい」と勧められているのです。「聖なる生活」と訳されている言葉は、「聖化」と訳せる言葉です。意味合いとしては、「清められていくこと」とか「聖なる者と変えられていく」ということです。そのような生活を求めなさいということです。
10節には「肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです」と書かれていました。清められるというのは、神の神聖にあずからせていただくということです。神様の御性質に変えられていくということです。
ならば神の鍛錬は絶対に必要でしょう。神の鍛錬をも含め、聖化を求めていくことなくして、すべての人との平和を追い求めることはできないのです。いやさらに言うならば、そのような聖化を求めていくことこそが、最終的に神にまみえる備えでもあるのです。それなくしては「だれも主を見ることはできません」と書かれているとおりです。
逆に言えば、私たちが神に信頼し、すべての人との平和を求め、神によって聖化されることを追い求めているならば、私たちの信仰生活は、たとえそこにどんな困難があろうとも、様々な闘いがあろうとも、全く心配ないということです。すべて私たちを聖化するために用いられるのであって、すべては神にまみえる備えとなることが分かっているからです。
それゆえにまた、最終的に神にまみえる備えということを考えず、すべての人との平和をも求めず、聖化されることをも追い求めていないならば、神の鍛錬の意味が分からないわけですから、いくらでもかつてのイスラエルの民のようになってしまうということはあり得るわけです。それゆえに「神の恵みから除かれることのないように、また、苦い根が現れてあなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚れることのないように、気をつけなさい」と語られているのです。
彼らが神の恵みから除かれたのは、不信仰のゆえであったことは既に語られていたとおりです。「苦い根」は申命記29:17に出てきますが、主に背いて偶像に寄り頼むようになることです。神の鍛錬の意味が分からなければ、手軽に幸せを約束する神、手軽に問題を処理してくれる神を求め、安易に困難を回避する道ばかり求めることになるでしょう。それは即、不信仰につながることは火を見るより明らかです。
それゆえに、そのような道を選ぶことがまた、長子の権利を譲り渡したエサウに喩えられているのです。エサウにとっては、神の約束にかかわる長子の権利よりも、お腹が減った時に一杯の食物を得ることの方が重要だったのです。そのように、神の約束に思いを向けることがなければ、今目の前の困難を回避することや、今目の前の欲望を満たすことの方がずっと大事になってしまうでしょう。ですから、そのように「みだらな者や俗悪な者とならないよう気をつけるべきです」と警告されているのです。
結局、重要なのはどこに目を向けているかなのです。ゴールに向かうレースを走っているのだという認識を持っているか否かが問題なのです。
実際、私たちがレースを走るに当たって、そのはじめに近づかせていただいたもの、触れさせていただいたものは、あのイスラエルの人たちが近づき触れたものとは比べものにならないほど恵みに満ちたものであったはずです。それが18節から24節に語られていることです。私たちは比べものにならないほどに幸いな位置にいるのです。だからこそ「あなたがたは、語っている方を拒むことのないように気をつけなさい」と語られているのです。
この手紙の冒頭には、「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」(1:1‐2)とありました。そのように、地上で神の御旨を告げる人々の言葉が語られてきた後、神の言葉そのものである御方が天から来られたのです。神はキリストを通し、天から御旨を告げられたのです。
その内容については、既にヘブライ人への手紙において見てきたとおりです。キリストが自らの体を犠牲として捧げ、私たちを執り成す大祭司として御自身を現してくださったのです。この神の語りかけを拒み、この御方から離れてしまうならば、もはや罪のためのいけにえは残っていません。それゆえに、この語りかけを拒んで、心をかたくなにしてはならないことが繰り返し語られてきたのです。
私たちはイエス・キリストによって現され、私たちに伝えられてきた福音の言葉にこそ錨を降ろさなくてはなりません。わたしたちは目に見えるものによって生きるのではなくて、信仰によって生きるのです。目に見えるものは過ぎ去ります。「わたしはもう一度、地だけではなく天をも揺り動かそう」とハガイの預言したとおりです。動かざるものはありません。動かざるもの、唯一確かなものは「揺り動かされることのない御国」です。これこそが確かな希望です。その揺り動かされることのない御国の約束を私たちは既に受けているのです。ですから「感謝しようではないか」と語られているのです。「感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう」と。