ヘブライ人への手紙 10:1‐18
8章の始めに要約として書かれていたことを、もう一度振り返っておきましょう。「今述べていることの要点は、わたしたちにはこのような大祭司が与えられていて、天におられる大いなる方の玉座の右の座に着き、人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋で、仕えておられるということです」(8:1‐2)。
そこでまずは聖所とそこにおける大祭司の務めに目が向けられ、最初の契約における地上の聖所は天の聖所の写しであり影に過ぎないのだ、ということが語られてきました。地上の聖所と祭司制度は天にあるものを指し示すものであり、また来るべきまことの大祭司の務めを指し示すものに過ぎないのだということです。そして、その写しによって指し示されていた本当の聖所に仕える大祭司が現れてくださったのであり、今も執り成していてくださる。それがイエス様であるということなのです。
さらにその要約は、次のように続けられていました。「すべて大祭司は、供え物といけにえとを献げるために、任命されています。それで、この方も、何か献げる物を持っておられなければなりません」。
この「献げる物」については、前回お読みしました9章の後半に次のように述べられていました。「また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました」(9:25‐26)。キリストは、自らの体を贖いの犠牲として献げ、ただ一度限りの、罪の贖いの祭儀を行ってくださったのです。今日お読みしました10章は、そのことについてさらに詳しく展開しています。
今日の箇所において、「いったい、律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません」(1節)とこの著者は語り始めます。既に見てきましたように、ここで考えられているのは、主に祭儀律法です。「礼拝の規定と地上の聖所」(9:1)に関することです。特にここで取り上げられているのは罪の贖いの儀式に関することです。
律法で定められて行われてきた罪の贖いの儀式は影に過ぎない。実体がない。つまり本当の意味で罪は贖われてはいないということです。それは来るべき良いこと、本当のこと、実体としての罪の贖いと罪の赦しを指し示すものに過ぎないのだということです。それはでは予告編を見せられてきたに過ぎないのです。しかし、ついに本編を見る時がきたのです。既に述べられていたように、その実体とはイエス・キリストにおける罪の贖いです。
そのように、動物犠牲が献げられた祭儀には罪を贖う実体がないわけですから、罪は実際には取り除かれないのです。だから、どんなに毎年犠牲が献げられても、「神に近づく人たちを完全な者にすることはできません」と書かれているのです。
この場合、「完全な者」とは、神に近づけるという意味での完全です。「神との間に何の隔てもない」と言い換えてもよいでしょう。人間が献げる犠牲は、神との間の隔てを完全に取り除くことはできないのです。
もし人間の献げる動物犠牲で隔てが取り除かれているならば、一回犠牲を献げた後には、「礼拝する者たちは一度清められた者として、もはや罪の自覚がなくなるはずですから、いけにえを献げることは中止されたはずではありませんか」と彼は言います。この場合、「罪の自覚がなくなる」という表現は、誤解を招くかもしれません。むしろ「わたしは赦されていないという意識がなくなる」と言い換えて理解したらよいでしょう。
罪の贖いの犠牲を献げるけれど、そこで起こるのは「罪の記憶がよみがえって来る」ことだけだというのです。「わたしはまだ赦されていない」という意識が残っているのです。「わたしはまだ赦されていない」という思いをもって、毎年、それこそ一生懸命に犠牲を献げるのです。罪を赦してもらうために毎年犠牲を献げるのです。どうしてそうなるのでしょうか。「雄牛や雄山羊の血は、罪を取り除くことができないから」なのです。
これに対して、キリストが献げられた犠牲とは何であるかが語られます。ここで引用されているのは詩編40編です。(ギリシア語訳聖書からの引用ですので、私たちが持っている詩編とは若干言葉が異なります。)その詩編がキリスト預言として読まれています。というよりも正確には、キリストが世に来られる時に(いわば受肉の直前に!)こう言われたのだ、このような意図をもって来られたのだと読まれているのです。
神は律法に従って献げられる犠牲、罪を贖う犠牲を「望みもせず、好まれもしなかった」。もし神様がそれを「望んでいた」とするならば、罪の贖いというものは、いわば「神様の望んでいるものをあげますから、罪の赦しをくださいね」という人間と神との間の取り引きのようなものになるでしょう。しかし、そうではないのだ、と聖書は語っているのです。
そうではなくて、神が望んでいること、神の御心としていることは別にあったのです。その御心を行うために、キリストは来られたのだというのです。その御心とは何でしょうか。「この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです」(10節)。これこそが神の望んでおられたことなのです。
さらにこう書かれています。「すべての祭司は、毎日礼拝を献げるために立ち、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げます。しかしキリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです」(11‐13節)。
キリストが犠牲を献げるのは一回限りです。その後は永遠に神の右の座についてくださったのですから、もう二度と犠牲を献げることはありません。あの犠牲は一回にして完全に有効なのです。「なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです」。これがキリストを信じて救われるということです。永遠に完全な者とされるのです。神との間に隔てのないものとされるのです。永遠に!あのエレミヤ書の預言にも書かれていたとおりのことが起こるのです。「もはや彼らの罪と不法を思い出しはしない」。神が新しい契約においてこう宣言されるならば、もはや罪を贖う犠牲は不要なのです。
ここで私たちの礼拝のあり方をよく考えてみる必要があろうかと思います。私たちが毎週の礼拝において、繰り返し罪の悔い改めの祈りを捧げ、罪の赦しを求めるのは、かつてイスラエルの人たちが罪の贖いの犠牲を献げていたのとは根本的に異なるのです。私たちのための贖いの犠牲は既に献げられたのです。私たちは、その一回限りの犠牲によって、永遠に完全にされているのです。私たちは赦されているのです。既に赦されている者として、罪の赦しを求めて御前に出るのです。
それは丁度、既に完全に子どもを赦している親のもとに、子どもが「ごめんなさい」と言って帰ってくるのに似ています。子どもが「ごめんなさい」と言ったから、あるいは償いをしたから、初めてそこで赦されるのではないのです。しかし、親は子どもが自分の罪を認めて赦しを求めて帰って来ることを望みます。それは交わりが妨げられないためなのです。私たちが礼拝において罪の赦しを求めるのは、既に赦されている者が、神との交わりに生きることを妨げられないようにするためなのです。神との交わりに生き続ける営みに他ならないのです。
私たちが為さねばならないのは、罪の赦しを得るために繰り返し犠牲を献げるような類のことではありません。まだ罪が赦されていない、十分に赦されていないという意識を持ちながら、その隔てを取り除くために何かを行ったり、神の望まれるものを献げて、その代わりに罪の赦しを得ようとすることではありません。既に赦されているのです。
そこには何と書かれていますか。「キリストは、敵ども、すなわちサタンとその勢力が御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられる」と書かれているのです。ならば、赦された者として神との交わりの中に留まり続け、「サタンとその勢力がキリストの足台となるその時のために、主の戦いに参加し、主に仕えることこそが重要なのです。