2023年7月12日水曜日

祈祷会用:ヘブライ人への手紙 5:11~14

 ヘブライ人への手紙 5:11‐14

 前回のところでは、イエス様が偉大な大祭司であり、しかも大祭司というものは「すべて人間の中から選ばれ」るものである、ということの意味を考えたわけですが、そこでは6節の「メルキゼデクと同じような祭司である」という部分には触れませんでした。しかし、これは読み飛ばすことができない重要なテーマであることは、10節において繰り返されていることからも分かります。実は、そこで触れなかったのは、7章以下でかなり詳しく展開されるからなのです。

 今日お読みした箇所、及び6章全体は、その「メルキゼデクと同じような祭司」ということが語り出される前に挟まれた形になっています。言い換えるならば、7章から「メルキゼデクと同じような祭司」について語られる前の「前置き」となっているのです。6章の終わりには、再び「メルキゼデクと同じような大祭司となられたのです」と語られて、そのテーマに戻ってくるのです。

 なぜ、すぐにそのテーマに入っていかないで、前置きを入れたのでしょうか。その理由は11節に記されています。「このことについては、話すことがたくさんあるのですが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません」。

 そうです、このことは話さなくてはならない。語るべきことはたくさんあるのです。しかし、聞く側の問題があるのです。この著者はさらに手厳しい言葉を続けます。「実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです。乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。」

 こうしてみると、「メルキゼデクと同じような祭司である」というテーマは、明らかに「神の言葉の初歩」すなわち、信仰入門に属してはいないということが分かります。それは「義の言葉」と呼ばれています。それが何を意味するかはさておき、これは赤ん坊のための「乳」ではないことは確かです。かなり固い食物なのです。だから、乳ばっかり飲んでいるあなたたちには食べられないし、理解もできないのだ、と言っているのです。

 恐らくこれを読んでいるのは、信仰を持って間もない人ではありません。「もう教師となっているはずなのに」と言われているのですから。もっとも「教師」と言っても、いわゆる教会の職制における「教師」という意味ではないでしょう。「少なくとも神の言葉の初歩くらいは、誰かに教えられるぐらいの人」という程度の意味であると思われます。新しく信仰を持った人の成長を助ける信仰の先輩ということです。しかし、実際にはそうなっていない。そうではなくて、自分自身が乳を飲ませてもらうことばかり考えている。そんなあなたたちに固い食物を与えることは難しい。分かるわけがない。そのようにこの著者は言っているのです。

 かなり辛辣な言葉だと思います。私たちがそう言われたらどうですか。しかし、これは多分に挑発的な意味合いで語られているということを理解しなくてはなりません。あなたがたは幼子であって、義の言葉を理解できない、と言いながら、では「メルキゼデクと同じような祭司」という話をすることは止めてしまうかというと、そうではないのです。7章以下で、それこそ固くて食べるのに一苦労するような食べ物を差し出しているのです。ちゃんと理解できることを期待して、本気で事柄の非常に深遠な部分に至るまで語っているのです。

 要するに、この著者は辛辣な言葉を投げかけてでも、その固い食物に取り組む姿勢を造りだそうとしているのです。その本心は6章2節に現れています。「成熟を目指して進みましょう」。これが言いたいのです。逆に言えば、成熟を目指して進む気がないならば、固い食物を与えることは意味がないのです。いつまで経っても食べられないでしょうから。

 さて、私たちはヘブライ人への手紙を読んでいるわけですが、この7章から10章にかけて書かれていることは、いわばこの手紙の心臓部分に当たります。ここをしっかり捉えなくては、この手紙を読んだことにはならないのです。しかし、この部分に入っていくに当たって、私たちもまた、今日の言葉をしっかりと心に留める必要があろうかと思います。というのも、これから旧約聖書を背景としたかなり細かい議論が展開されるからです。それが恐らく何週も続きます。ですから、私たちも心の内にも、とっつきにくいと感じて、真剣に取り組む思いが損なわれることがあるかもしれません。

 なので、7章に入る前に、私たちは「成熟を目指して進みましょう」という呼びかけを一緒に聞いてから、そこに入っていきたいと思うのです。乳を飲むことに満足していないで、固い食物を食べられる成熟した信仰の大人になることを目指して進みましょう、と。この著者が語る、いささか挑発的な言葉をも自分に対する言葉として正面から受け止めて、相応しい姿勢で7章以下を読んでいきたいと思うのです。

 しかし、「固い食物」を食べられるようになるとは、どういうことでしょうか。成熟した大人になることを目指すとは、どういうことでしょうか。誰でも分かるような話ではなく、旧約聖書を背景とした、込み入った難しい話を理解できるようになる、ということならば、ある程度勉強すればそうなれるでしょう。神学校で教えられているようなことを勉強すれば、ここで語られている議論そのものは理解できるようになるでしょう。しかし、それが成熟するということなのでしょう。そうではないでしょう。

 ここで「固い食物」については、こう言われているのです。「固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです。」つまり、たとえ神学者であっても、このことを経験によって訓練されなければ、霊的な幼子のままであるということは、あり得るということです。

 成熟した大人とは、「善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された」人です。確かに、この世においても、物事の善し悪しが分かる人が「大人」と呼ばれます。それが分からない人は「まだまだ子供ね」と言われます。しかし、ここで「善悪」と言われているのは、この世において一般的に言われる道徳的判断ではありません。あくまでも信仰の事柄が重要なのです。信仰において重要なのは神様なのです。

 この箇所を理解する上で一番助けになるのは、恐らくパウロが語った次の言葉でしょう。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」。これが成熟した大人です。現実の生活の中で「何が神の御心であるか。何が神に喜ばれることであるか」ということが考えられるようになることです。何が自分の望んでいることか、何が自分の喜ぶことであるか、しか考えられないのは、信仰の世界においても幼子でしかありません。御心を求めて生きる。そのようにして、信仰の理解と現実の生活とがしっかりと結びついてくる。それは現実の信仰生活における経験によって身につけていかなくてはならないことなのです。

 そのような大人になることを求めていく。そのような信仰における成熟を求めていく。そこにおいて、固い食物も食べられるようになっていくのです。神の御心を求めて生きる。この世界に対する神のご計画、その中にいる私たちに神が望んでおられること、それを真剣に求めていくならば、御言葉に対する姿勢も変わっていくはずです。単に「今日の話は分かりやすかった」とか「分かりにくかった」とか、「感動した」「恵まれた」というところで終わらないはずなのです。

 御言葉に対する姿勢を変えていきましょう。そして、成熟を目指して進みましょう。


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