ヘブライ人への手紙 13:18‐25
ヘブライ人への手紙も最後の部分となりました。今日はこれまで書かれてきたことを思い起こしながら、特に20‐21節に記されている祝福の祈りを私たちへの言葉として受け止めたいと思います。
まず心に留めたいのは、イエス様が「永遠の契約の血による羊の大牧者」と呼ばれていることです。既に述べられてきた「新しい契約」は、ここで「永遠の契約」と呼ばれています。最初の契約は一時的、暫定的なものに過ぎませんでした。それは「古びてしまったと宣言された」ものです。それに対して、新しい契約は永遠であり、決して変わらない関係であり、絶対に切れることのない絆です。その契約の中に私たちは置かれているのです。
それはまさに永遠に関わる決定的な出来事、イエスの十字架における死、を通して与えられた契約です。その契約の血は、動物の血ではなく、神の子が人間となって流された血です。古い契約の律法における動物犠牲は罪を本当に贖う効力はありませんでした。それはやがて来るべきものの影に過ぎませんでした。それは真に罪を贖うことのできるキリストの体、また契約の民を完全に清めることのできるキリストの血を指し示していたのです。
その犠牲については、「ただ一度」「唯一の」犠牲であることが繰り返し語られていました。「しかしキリストは、罪のために唯一の犠牲を捧げて、永遠に神の右の座に着き…」(10:11)。唯一ですから、二つ目はないということです。ただ一度のことですから、二度目はありません。すなわち、永遠に効力を持つ犠牲であるということです。
その永遠なる犠牲の血が流されたわけですから、キリストはその献げ物によって「聖なる者とされた人たちを永遠に完全なものとなさった」(同14節)のです。すなわち、神との関係が完全なものとされて、もはや神との間を隔てるものはない、ということです。このようにして、あのエレミヤを通して語られていたことが実現したのです。「わたしは、彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない」(8:12、エレミヤ31:34の引用)。
この「永遠の契約の血」という言葉の重みを知るためには、私たちは自分の置かれている立場をきちんと理解しなくてはならないと以前申し上げました。新しい契約が有効であり、罪の赦しが有効でなければ、私たちは自分自身で自分の罪を負い、自分一人で裁きの座において自らの弁明をしなくてはならないということでもあるのです。それはいかに恐るべきことであるか。私たちは、この新しい契約がイエスの血によって永遠に有効なものとされたことの重みを改めて感じる必要があるでしょう。
さて、そのように「永遠の契約の血」と語られているわけですが、それに続くのが「羊の大牧者」であることは、少々意外な気がしなくもありません。本来ならば、血について語られたわけですから、その血によって神の御前において執り成しをしてくださる「大祭司」が来るのではありませんか。実際、「大牧者」については、これまで全く語られてはいないのです。
しかし、これには恐らく大きな理由があるのでしょう。その直前の18節以下には、「わたしたちのために祈ってください。わたしたちは、明らかな良心を持っていると確信しており、すべてのことにおいて、立派にふるまいたいと思っています。特にお願いします。どうか、わたしがあなたがたのところへ早く帰れるように、祈ってください」と書かれています。「帰れるように」と言われているように、この著者はこれを読んでいる群れの一人であり、その牧会的な責任を負っている人であることが分かります。
それはこの手紙の内容からも想像できることです。22節にも「以上のような勧めの言葉を受け入れてください」と書かれていますが、この「勧めの言葉」とは要するに説教です。この手紙は、通常の書簡というよりは、書かれた説教であると言えるでしょう。彼はこの説教を通して、遠隔の地から牧会的な務めを果たしているのです。
ではこの時に彼らの牧者はいないのかと言うと、決してそうではなく、17節にも「指導者たち」に言及されていますし、彼らは「あなたがたの魂のために心を配っています」と語られているのです。しかしこの著者は、そのように指導者たちについて語った後、しかし彼らが今仰ぐべき真の牧者がいることを思い起こさせているのです。それこそが「永遠の契約の血による羊の大牧者」である主イエスだと言っているのです。
頌栄教会にも牧師が立てられています。牧師は牧師としての務めを果たします。しかし、私たちにおいても、牧師も信徒も忘れてはならないことは、私たちには常に最高の大牧者がいるということです。自ら犠牲となって契約の血を流し、また自ら大祭司として私たちのために執り成していてくださる方、その御方が聖霊の働きを通して私たちを牧会してくださるのです。この御方こそ、羊のことを誰よりも心にかけていてくださる羊飼いです。
私たちはこの御方に養われ、この御方に導かれながら、天の故郷へと向かうのです。既に永遠の御国は与えられ、神の安息に与ることが約束されている私たちが、なおも闘い多きこの時の間を旅する間、かつてイスラエルの民が羊の群れのようにモーセとアロンに導かれたように(詩編77:21)、それにもまさるイエス様によって私たちは導かれていくのです。イエス様は「信仰の創始者また完成者」(12:2)なのですが、以前申し上げたとおり、「創始者」とは「先導者」という意味でもあるのです。
そしてさらに私たちは、「平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように」と書かれていることを心に留めましょう。
私たちには大牧者なるイエス・キリストがおられるということは、ある意味では私たちは弱くても大丈夫だということです。羊は弱くても羊飼いが強ければ大丈夫。「主我を愛す。主は強ければ、我弱くとも恐れはあらじ」というのは、確かに真理です。しかしもう一方において、聖書は羊飼いのもとにある私たち自身もまた強くなれるのだ、とも語っているのです。
12章の終わりには、「このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう」と語られていました。そして、それが具体的にどういうことかを13章前半において見てきました。私たちはこの地上に永続する都を持っていません。ですから「わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか」と勧められているのです。
そのように、この地上において御心を行って生きていくことは確かに困難なことであるに違いありません。しかし、「私たちは弱いからできません」と言う必要はないのです。神御自身が「御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださる」と言うのです。
これは「完全にする」とも訳せる言葉です。そこには完全に装備することや修復することが含まれています。神がそのようにしてくださる。その神とはどのような御方かと言えば、「主イエスを、死者の中から引き上げられた」神だと言うのです。「引き上げる」という表現は、通常の復活を表す表現よりも、より強く神の力を表している表現です。そのような方が、私たちに必要な装備と修復を与え得ないはずがありません。
そして、この著者は「あなたがたに備えてくださるように」と言っています。これは祈りです。そのように、これは私たちが単純に神に求めるべきことである、ということを示しているのです。
さて、このようにヘブライ人への手紙を読んでまいりました。この著者は「どうか、以上のような勧めの言葉を受け入れてください」と言っています。大切なことは、これまで聞いてきたことを、私たち自身も自分への語りかけとして受け入れることであろうと思います。そのように、ここに書かれていることを本当に受け入れるならば、私たちの信仰生活は大きく変わっていくに違いありません。